【前回の記事を読む】「ニャー」赤毛のトラ模様の猫が入ってきた。すると今まで寝ていた男がひどく怯えた様子でガバッと起き上がり…

第一章 帰巣きそう

「あら、もうこんな時間だ。ごめんよ、今夜は手が足らなくてね。これから旅籠の大広間で町衆たちの寄り合いがあるんだよ。その荷台の上に酒と肴を置いとくから、よろしくやっておくれ。

もう暗くなってくるから、よかったらこの店の二階で休んでってもいいよ。二階といっても屋根裏部屋で、普段は部屋として使っていないんだけど布団や火鉢もあるからね。自由に使っておくれ」

お遥は手にしていたお盆を脇にかかえ、右手に酒瓶を何本も摑んで隣の旅籠の方へ小走りに行った。

勘治はさっそく囲炉裏に向かい酒を飲みだした。棒鱈の煮つけを口いっぱいにほおばった。

「いやあー、うめえなあ。さすが直江の津・今町だ。海の幸は最高だなあ。おいらは今まで山のものばっかり食ってきたからよお。もう蕎麦(そば)や粟(あわ)はごめんだぜ」一方の男は箸をつけようとしない。

「おう、おめえさんは酒飲まないのかい?」

「酒は飲まねえ」

「なんだい下戸(げこ)かい。まあいいや、その分おいらが飲んでやるぜ。ところで、おめえさんの名前は聞いてなかったが。おいらは勘治。柿の木坂の勘治っちゅう信州生まれの三下だ。おめえの名は?」

「それが……思い出せねえんで……」

「はあ? 思い出せない? するっていうと、自分の名も、どこから来たのかも覚えてねえっていうのか!」

「……そうだ」

「そりゃまた大変なこった。おめえ、これからどうするつもりだ」

「まだ決めてない……」