真世はイタリアに来る前にイタリア語を二年間みっちり勉強してきた。しかし実際に来てみて耳にするイタリア語の会話は日本で習ったイタリア語とはひどく違っていた。それは外国で日本語を勉強してから初めて関西空港に降り立った外国人の戸惑いに似ている――何しろ自分たちの習った日本語と大阪弁がひどく違っているからだ。
イタリアは古い国で、方言がきつい。フィレンツェ人は〝K〟の音を〝H〟と発音する。家のことを〝カーザ〟と言わずに〝ハーザ〟と言う。他の地域のイタリア人がHを発音出来ないのと対照的だ。フィレンツェ人は正しく〝ヒロシマ〟と言える唯一のイタリア人だ。
彼はスパゲッティのボロネーゼソース、彼女は北イタリア名物のスパゲッティのポルチーニソースをそれぞれ頼み、途中で皿を交換し合った。こうすれば十日間のイタリア旅行中二十種類のパスタを食べられる計算だ。彼はこれから食べるパスタを私用のスマホで撮影し、メモするつもりである。メインはもちろんフィレンツェ名物の炭火焼きTボーンステーキだ。
だがホテルに戻ると、彼らの新婚気分は一挙に吹き飛んだ。部屋が荒らされ、ひっくり返っていた。何者かが彼らの部屋に侵入して部屋を荒らした。スーツケースの鍵は壊されて開けられ、家具はひっくり返り、室内の戸棚や引き出しはことごとく開けられていた。
忠司はホテルの支配人を呼んだが、彼はすでに帰宅していた。代わりに出てきた夜勤のフロントマンは明らかに自分の責任ではないと固く信じているらしく、初めは何者かが侵入したことすら認めようとしなかった。
忠司は頭から湯気を立て、「それじゃ俺たちが自分たちで荷物をひっくり返し、部屋を滅茶滅茶にしたと言うのか?」と早口の英語でまくしたてた。
犯人の目的が何であるにせよ、忠司のノートパソコンは無事だった。二台のスマホとカメラは肌身離さず持って出ている。
警察に届けるに及んで、ようやく支配人がやって来た。明らかに迷惑気な態度である。きっと自宅で妻の手料理を味わっているところを引っぱり出されて機嫌を悪くしているのに違いない。部屋を荒らされたのは自己責任だと言わんばかりだ。忠司は自分に〝落ち着け、ここは日本じゃない〟と言い聞かせなければならなかった。