性格的に線が細く控えめながら、心の底では我の存在を疎(うと)ましく思っていたに違いない。まして王妃の同母弟である穴穂部王子(あなほべのみこ)と大王位に就いた泊瀬部王子(はつせべのみこ)(崇峻天皇)まで政争で余儀なしとはいえ死なせてしまっている。我もその件には関わっていた。

いや、我の意を汲んで馬子が為したものだ。穴穂部間人王妃の死は悲しいことではあるが、正直に言うと心のどこかで安堵も覚えていた。

我にも大きな苦しみがある。太子と年頃が同じ我が子の田王竹子(たけだのみこ)は心優しくはあるが蒲柳(ほりゅう)の体質で幼い頃から案じていたが、無事に育てば王位を譲る心づもりでいた。

その時には厩戸を竹田の支えと思っていたが、病弱の竹田に後を託すことはできず、厩戸を我の後嗣にすべく太子としたのである。

そして悲しいことに竹田は早世してしまう。その厩戸も今や瀕死の際にあり我もこの通り年老いてしもうた。

戌(いぬ)の刻(午後八時)が近づく頃に、斑鳩に見舞いに行かせていた田村王子(たむらのみこ)(後の舒明天皇)がその様子を伝えるために戻ってきた。

厩戸太子は病で倒れて以来、居所である斑鳩宮ではなく少し東南に位置している飽波宮(あくなみのみや)において、太子が最も愛(いと)しんでいた膳大娘(かしわでのおおいらつめ)菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ))に病の手当てを受けていた。

宮には山背王(やましろのおう)をはじめ上宮家の人々や太子に縁のある者たちが詰めていて不安げに見守っている。

太子の容態はいよいよ難しい境にあるようだが、それよりも驚かされたのは日々看病に勤しんでいた膳大娘がここ数日前から寝込んでいたが、昼過ぎにあえなく亡くなってしまったとのこと。

それを知ると太子の顔から血の気がひき病状はさらに悪化した様子になったという。そして太子が一言、

「我も共に逝きたい……」とつぶやくと静かに目を閉じたと聞いている。

田村王子が飽波宮に着いたのは、膳大娘の死を受けてその事後処理のために、宮の内ではせわしなく出入りが続いていた頃であった。

 

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