第三章 崩壊の予感
季節は何度も巡り、同じ景色が何度も塗り替えられていった。アパートの前に立つ桜は、春には淡い花びらを空に解き放ち、夏には蝉の声を抱え込み、秋には赤茶けた落ち葉を撒き散らし、冬には枝を固く縮こませて冷たい風に耐えていた。時間は誰にでも平等に進んでいるはずだった。
けれど、僕ら二人の関係だけは、ある地点に釘付けにされたまま、足踏みを繰り返していた。見えない円の内側で、抜け出せない小さな行進を続けているようだった。外からは同じように見えるのに、内側では着実に摩耗していく足音があった。その摩耗が、やがて彼女の笑顔を少しずつ削り取っていった。
ある夜、ほんの些細なことから言葉の刃が飛び交った。食卓に並んだ夕食の味付けが、僕には少し濃すぎたのだ。
「塩を入れすぎじゃないかな。健康のことも考えた方がいいよ」
僕は何気ないつもりで言ったのだが、その言葉はテーブルに置かれた皿の上に冷たい石を落とすような響きを持っていた。彼女は箸をそっと置き、肩を落としてため息をついた。
「あなたはいつもそうやって言うけど、私は私なりに考えてるの」
その声は氷の粒を舌の上で転がすように冷えていて、少し触れただけで歯の隙間を凍えさせるようだった。僕は咄嗟に反論した。
「僕はただ正しいことを言ってるだけだ。君のためを思ってのことだよ」
しかしその「正しさ」は、空気を固く締め付ける縄のようだった。沈黙が落ち、時計の秒針だけがやけに強調されて響いた。彼女は笑わなかった。僕はそのとき初めて、彼女の顔から笑みが完全に消えていることに気づいた。
笑顔はどこへ行ってしまったのだろう。
かつての彼女は、どんな場面でも微笑みを湛えていた。図書館の静けさの中でも、雨に煙る喫茶店でも、夜道を二人で歩くときでさえ。その微笑みは僕にとって、夜の海を渡る船を導く灯台の光のようなものだった。だが今、目の前にいる彼女は無表情で、薄い膜を隔てて遠い世界に取り残されたように見えた。
次回更新は11月18日(火)、11時の予定です。
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