【前回の記事を読む】僕は心配しているつもりだった。だがその「心配」は、彼女の行動を制限するための鎖となった
第二章 小さな歪み
ある晩、夕食の席で彼女が唐突に言った。
「ねえ、子どもがいたら、どんな感じになるんだろうね」
僕は箸を止め、しばらく考え、それから答えた。
「まだ早いよ。経済的にも準備ができていないし、もっと生活が安定してからの方がいい」
彼女はしばらく黙り、それから「そうだね」と微笑んだ。その微笑みは、氷の下で流れる川のように冷たく、どこか遠くへ流れ去っていく気配を含んでいた。彼女の瞳の奥に一瞬だけ浮かんだ光は、誰にも気づかれないまま消え、僕の目には届かなかった。
夜、彼女が眠ったあと、僕はひとりでワインを飲んだ。薄暗い部屋で、グラスの底に残る赤い影をじっと見つめながら、胸の奥がざらついていることを自覚した。彼女の「そうだね」という言葉が、どうしても耳にこびりついて離れなかった。まるで部屋の隅に置き忘れられた古い時計が、止まった針のまま、それでもかすかに音を刻み続けているように。
それでも僕は、自分が正しいと思っていた。合理的に、効率的に、堅実に生きること。それが彼女を守ることだと本気で信じていた。彼女の夢や衝動は、時に危ういものであり、僕が制御しなければならないものだと考えていたのだ。
だが、制御とはいつも破壊の予兆を含んでいる。小さな歪みは、気づかれないうちに広がっていく。音もなくひび割れていくガラスのように。誰もが気づいたときには、すでに取り返しのつかない形になっている。
その頃の僕らを外から見れば、きっと幸福そうに見えただろう。並んで歩く姿は平穏で、どこにでもいる新婚夫婦の一組にすぎなかった。
だがその笑顔の裏では、彼女の心の奥に小さな空洞が少しずつ膨らんでいたのだ。僕が彼女の皿の置き方に口を出したとき、休日の計画を退けたとき、友人との約束を減らさせたとき——その一つ一つが、彼女の笑顔から色を抜き取っていった。
ある夜、彼女が窓辺でじっと外を眺めていたことがあった。街灯の下に落ちる自転車の影を、まるで何かを待つように見つめていた。僕が「どうしたの?」と尋ねると、彼女は振り返り、いつものように笑った。
「ううん、なんでもないよ」
その笑顔は、まるで薄い紙に描かれた絵のように、輪郭だけがそこにあり、内側の色はすでに剥がれ落ちてしまっていた。僕はその絵を本物の笑顔だと信じ込み、その剥がれ落ちた部分に気づかないまま、またワインを注いでグラスを傾けていた。