【前回の記事を読む】馬を洗うならば、その魂が冴えるまで洗い切れ。人を恋するなら、その命が尽きるまで愛し抜け
人生哲学
「多様性」
「多様性の尊重」は、これまで「二極化」のみに始終してきた「この地球」を変える。
ホモサピエンスとネアンデルタール、白人種と植民地、宗主国と従属国、連合国と枢軸国、米とソ、米と中、東と西、南と北、男と女、健常者と障害者、嫡出子と非嫡出子、加害者と被害者、有罪と無罪、等々、「二極化の世界」を挙げれば、枚挙にいとまがない。
「多様化の尊重」は「極」に加わる理由を希薄にし、結果として全ての事象が多極化に向かう。
その多極化の先には「超多極化」が待ち構えている事は、容易に想像出来る。
去る事件を「多様性」を以て観るに、元首相を射殺した「彼」も、例の宗教法人も、その宗教法人をこれまで野放しにしてきた政府も、議員も、被害者である元首相までもが、「或る種、或る意味」に於いての罪が存在し、公判が維持出来ない事態となる。
「多様性」って何なの? 自由に生きることなのか?
それとも、自分にとって、都合の良い様に考えて、唯、無責任に生きる事なのか?
質素倹約、質実剛健、滅私奉公、七生報国、に生きた私には「多様性」は良く判らない。
もし、「自分に都合の良い様に、無責任に生きて良い」のなら、私は、終生、ヤクザに生きたい!