「重さ」

「重さ」は、何で感じている?

何かを手にして「重いっ!」と感じる時、それは「脳」がそう感じている。

筋肉でも、関節でも、骨でも無く、「脳」がそう知覚している。

同じ1kgの重さでも、ベニヤ板1kgより、純金1kgの方が、落とすほど、重く感じる。「同じ重さ」であれば、より体積が小さいほど「ずっしりと重く」、脳は感じる。

初めて触る物体は、「妙に、重かったり、軽かったり」することがある。

脳には物体ごとの「知見」が経験則として積み上がっており、物を持つ前から視覚を通じて「これ位の重さだろう」という予測知見を事前に身体の筋肉や関節に伝えているので、「妙に、重かったり、軽かったり」する感覚は感じない。

純金1kgが、落とす位、重く感じるのは、これまでに「持ったこと」が無いからだ。

人間の「重さ」の概念は、貨幣価値の概念と同じく「金本位制」である。

人間は「金の重さ」と同じく「ずっしりと重い」ほどに、価値がある様に感じる。

ロレックス・デイトナ、モンブラン万年筆、デュポンのライター、メルセデスのドア等。

高級品は全て「重い」、その感覚を逆手に取って大成功しているのが、「iPhone」。

iPhoneは幾らでも軽く出来るのに、高性能なiPhoneほど、高価格なiPhoneほど、製品重量を「金の延べ棒」の様に、わざと「ずっしりと重く」製作し、高級路線を独走する。

これまでに、「見慣れたり」、「触り慣れたり」、永い人生で得た「知見」や、「経験則」に、脳が囚われていると、我知らぬ間に、脳は「異常な、重さや、軽さ」を感じなくなる。

人生で得た「知見」や、「経験則」ごときに、「脳」を好き放題にさせてはいけない。

常に、日々新たな感覚で「脳」を物事と正対させ、全ての事象に対し「脳」に疑義を見出させ、「時代の真理」を「脳」に求道させることが、肝要である。

同じ事を、同じ言を、日々繰り返してはいけない。今日は、昨日と、全く違う日なのだ。