「多様性」

「澄む」という言葉が、かつてのこの国には在った。

現代に於いて「澄む」なんて言葉は、死語である。

「澄む」という語には、「高潔」が内包される。

「高潔」という語には、「厳格」が内包される。

「厳格」という語には、「真理」が内包される。

「真理」という語には、「哲学」が内包される。

いずれにしても「澄む」にしろ、「高潔」、「厳格」、「真理」、「哲学」にしろ、昨今、はしかの様に大流行りの「多様性」という語には、真反対の語ばかりである。

厳格さの極みと云える「李下に冠を正さず」と生きた昭和の私には、「多様性」という流行り言葉は、安直には受け入れ難い。

「多様性」とは「振幅」を問題にしているのでは無い。

「多様性」を認めるとは「幅の広さ」では無く、「全く別」をも認めることだ。

次回更新は11月2日(日)、11時の予定です。

 

👉『耄狂耄語』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】「私、初めてです。こんなに気持ちがいいって…」――彼の顔を見るのが恥ずかしい。顔が赤くなっているのが自分でも分かった

【注目記事】「奥さん、この二年あまりで三千万円近くになりますよ。こんなになるまで気がつかなかったんですか?」と警官に呆れられたが…