「昨夕のこと……」
エレベーターに、見知らぬ女性と二人きりで乗り合わせる夢を見た。
夢なので、顔は判らないし、前後の理由はわからないが、ただ、その女性を抱きしめていた。
夢なのに、エレベーターの中で抱きしめた、彼女の「柔らかさ」だけはリアルに判った。
目覚めてからも、右手の指に「柔らかさ」が残るほど、妙にリアルな夢だった。
現実には起こり得ない、馬鹿げた、不思議な「夢」だった。
「大人になる」ということは「賢くなること」とは違う。
「大人になる」ということは「哲学する」ということだ。
「賢くなること」に、何か意味があるのか?
賢くなれば幸せになるのか? 賢くなれば金が儲かるのか?
賢くなるってことは、「凡庸に近付く」ってことじゃないのか?
大人になり、賢くなるということは、取りも直さず、「均一性、一様性、単元性」を身に付けることではないのか?
世間での小汚い要領を覚え、罪の無い言い逃れ方を覚え、さりげなく人のせいにする処世術を学ぶことが、「賢くなる」ということか?
それは、世間では「小賢しい」って云うのじゃないのか?
よく似た話ばかりでは「つまらん」。
よく似た答えばかりでは「つまらん」。
よく似た結論ばかりでは「つまらん」。
「若さ」が輝いているのは、若い人達が「無知で馬鹿」だからだ。
無知から来る「無謀さ」こそが、若さを輝かせるのだ。
年老いて、経験という名の「既知」が積み重ねられ、その膨大な、何の根拠も、価値も無い「既知」により、極当然の無難な答えしか導き出せない「無難な大人」になることが、「賢くなる」ってことなのか?
自由に生きよう。
自分の魂に添って生きよう。
賢くなくていい。小賢しくなくてもいい。
無知で、無教養で、いいじゃないか?
ヤクザに生きよう。死ぬまでヤクザに。
人生で必要なのは、「自由と、ヤクザと、哲学」だ。