【前回の記事を読む】少女たちを追い詰める大猪の猛進――絶体絶命のその瞬間、前に現れたのはひとりの若者だった
第二話 機織り工房の皇女
4 フタジの恋
フタジは何が起こったのか分からなかった。自分のところに突進してくる猪を、誰かが飛び下りてきて助けてくれたところまでは覚えていた。後は横に飛ばされ二、三回転がっていたのだった。
助けてくれた人の顔は見ていなかったが、見なくてもフタジには分かっていた。こんな危険な時に助けてくれるのは一人しかいなかったのだ。
転がったので、両足と両腕に擦り傷ができていた。少し痛みがあったが、あの大きな猪に襲われたことを考えれば何もないに等しかった。
「フタジ、大丈夫か。怪我していないか」
という懐かしい声が聞こえた。小碓の呼びかける声だった。
目を開けたフタジは、
「やはり小碓様だったのですね。ありがとうございます。私を助けてくれるのは必ず小碓様ですものね。大丈夫ですよ」
フタジは恥じらいを含んだ美しい顔を小碓に向けて立ち上がった。
「フタジ、帰ってきていたのなら知らせてくれよ。このような形でまた会うとは思わなかった。フタジに似た娘が山道を登っているのを山の上の方でみつけて、急いで下りてきたのだ。最近この近所では猪がよく出てきて、人を襲うので危ないと思い急いで追いかけたが、間に合ってよかった。相変わらず運の強い娘だな、お前は」
フタジは、小碓の話を聴きながらも、じっと小碓の衣服を見ていた。あれだけ大きな猪と激しくぶつかり、地面で数回転んだにもかかわらず小碓の麻の着物は汚れがあるものの、破れたり、ほつれたりしていなかった。
小碓の上衣は、よく見ないと分からない程度に染めてあり、それはのちに浅葱色(あさぎいろ)と呼ばれる淡い藍色だった。しっかりと着ているものを観察していた。