そう思うとあまりの馬鹿馬鹿しさに気付き、自嘲(じちょう)する。フッと鼻で笑うと肩の力が抜け、何とはなしに半円窓(はんえんまど)の格子(こうし)越しに外へと意識を飛ばした。

朱黄色(しゅおうしょく)の夕陽が眩(まぶ)しい。手のひらで光を遮(さえぎ)りながら目を細め屋外の街の様子を眺め見た。

どっしりとしたルネッサンス様式※※の石造りの建物の向こう側に見える石橋の下を、輸送品をふんだんに積んだ交易(こうえき)用のゴンドラが揚々(ようよう)と左右に行き交(か)っている。

そうだ。この光景が全てを物語っているのだ。

私は全てを手中に収めているはずだ。

なのにこの虚無感(きょむかん)は何なのか。政(まつりごと)においても商(あきな)いにおいても父上の代で隆盛(りゅうせい)を極めた後、私に引き継がれた現在も安定した世を繋(つな)いでいる。

だが、しばしば喩えようのない不安感と出どころのわからない焦燥感(しょうそうかん)が押し寄せるのは否(いな)めない。これは私が女であるが故(ゆえ)の弱さに所以(ゆえん)するわけではない。様々な文献(ぶんけん)にも、この世はあまりに残酷無比(ざんこくむひ)で運命には逆らえず逃げようもないと示されているではないか。

「古代より歴史は淡々(たんたん)と繰り返される」

得たものが大きければ大きいほど、周囲に担(かつ)ぎ上げられるほどに、いつかその中の何かを一夜にして失うのかもしれないというあらぬ予感に苛(さいな)まれる。

✥  ✥  ✥

時を遡(さかのぼ)ること十三年。

母を亡くして間もない頃、当時元首であった父が一時的ながらも声を失った私に、話し相手兼(けん)護衛としてこの男ルシフェルを授(さず)けた。銀色の蔦(つた)の葉の紋(もん)は、その時に父がこの男に与えたものだ。

水の都の中心地に建つ元首宮(げんしゅきゅう)は、石壁も石畳も何もかもが湿気を含み重く暗い。

私室の入口の石柱の間から射(さ)す穏やかな陽光を身に纏(まと)いながら、父とともに現れた年端(としは) もいかぬ少年ルシフェルは、まるで闇夜の中を独り歩(ほ)を進める私のもとに寄越(よこ)された光の天使のように、柔らかな輝きをその身から放っていた。

銀色のさらさらとした毛髪は細く長く繊細で、女児にも見える愛らしい顔貌(がんぼう)、皮膚は薄く血管が青く透けて見えるほどに白く美しい。か弱そうな少年は、背丈より一回り大きい長剣を腰に差していた。

相反(あいはん)するように、少年は長剣の反対側、つまり右手に白い熊のぬいぐるみを抱(かか)えていて、私がそれに興味を示したと思ったのか緊張したのか、少年は右手をぎゅっと握りしめ、ぬいぐるみを胸元にさらに引き寄せ下唇を噛(か)んだ。


※性癖…人間の心理や行動の癖、性格、性質上の偏りのことを意味する。

※※ルネッサンス様式…十四世紀から十七世紀初頭にかけてイタリアを中心にヨーロッパで展開された建築や家具、装飾の様式。古代ギリシャ・ローマの文化の再現を目指すことで、新しい表現や技術に大きな影響を与えた。

 

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