二歳の貴志は私にとってはかけがえのない宝物、自分が育てると決めた。発達障害の傾向がみられる貴志とのシングルマザー生活は、精神的にも経済的にも決して容易ではないと分かってはいたが、結婚前にしていた在宅翻訳の仕事を再開して生活の経済基盤を作り、なんとか頑張ることができた。
母や姉の協力に支えられ、息子の成長から受けとる喜びと希望は、苦労を遥かに上まわるものだった。
それは夫の裏切りという傷跡を癒やし、失っていた自分への誇りと自信を徐々に回復させてくれた。
貴志は八歳の時に交通事故で亡くなった。別れた夫が久しぶりに動物園に行くと言って連れ出した途中の事故だった。
仕事先に急報を受けて駆け付けた病院で二人が亡くなったことを知った私は、受け入れ難い現実への狼狽(ろうばい)と人生の不公平さへの怒りで震えた。
しかし、私の憤りは、夫の二人目の妻の俯(うつむ)いた蒼白な顔と窄(すぼ)めた両肩を見て行き場を失った。
理不尽な暴力にも等しい打撃を受けた自分がその後の葬儀や納骨をどう乗り切ったのか記憶がない。
三カ月を過ぎた頃容赦のない現実に向き合った私に訪れたのは、いたたまれないほど強い後悔と自責の念、そして取り戻すことのできない宝物への底知れない喪失感だった。
仕事は辞めた。貴志の写真の前に一日中黙りこくって座っている私を母や姉や友人が心配し、毎日誰かが顔を出してくれたが、手がつけられていない食事を見てため息をつくばかりだった。
「頑張りなさい、由希子、しっかりしなきゃ」
頑張るって? 誰のために? セピア色に変色し、光を失った日常のどこにも私は生きる目的が見出せなかった。 朝が来ればまた無意味な一日が始まる。