承安六年(一一七六年)
旧暦四月二日 十八歳
束稲山
平泉から出て北上川を渡り、青葉繁る野道を分け入ると、観音山へと通じるなだらかな小道が、次第に峠に上る急峻な山道となる。
鹿毛の駿馬の脇腹を鐙(あぶみ)で締めつ緩めつ、九郎は急ぐ事なくどこまでも前進していく。
脇から延びる若緑の葉が、次第に汗になる額や、頭上の藺笠(いがさ)をかすめてゆく。遠音の鶯の声が心地よい。すぐ後ろに近侍の渡辺治郎左エ門(わたなべのじろうざえもん)、鷹取彦十郎(たかとりのひこじゅうろう)が主を追ってくる。今日も東岳峠を越え束稲山(たばしねやま)に行くか、峠を右に折れて更に奥まで行くか、主の馬首の赴くままであった。
ふと左手奥の茂みに、動く気配があった。と思う間もなく九郎が、進む馬上で弓に矢をつがえて放った。しかし届かず、獲物の鹿は奥へ飛び去っていった。すぐその矢を追って放った治郎左エ門の矢が、遠のいてゆく鹿の首に見事に命中し、どさりと音を立てて鹿は草むらの中に没した。
馬上の九郎が笑い声を上げながら云った。
「でかいた、治郎左エ門。我の弱弓よのう。されどもう土産が出来よった。今日は遠出はやめて、帰りにこれを拾って屋敷へ帰るとしょう。目印を」
そう云って藺笠の飾り紐を解(ほど)き、頭上の枝に結びつけた。
「獲物を熊が引きはしねぇですか」
と彦十郎が云うと、
「さらば熊にやる」
九郎はそう云って馬の腹を軽く蹴り、先へ進んでいった。
注1 蝦夷地:北海道
【イチオシ記事】まさか実の娘を手籠めにするとは…天地がひっくり返るほど驚き足腰が立たなくなってその場にへたり込み…
【注目記事】銀行員の夫は給料50万円だったが、生活費はいつも8万円しかくれなかった。子供が二人産まれても、その額は変わらず。