「“長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令にも詳しかった。日の暮れるまで政務に従われ、知られないでいる無実の罪などは、必ず見抜いて明らかにされた。訴えを処断することがうまかった。
また、しきりに悪事を行われた。一つも良いことを修められず、およそさまざまの極刑を親しくご覧にならないということはなかった。国中の人民たちはみな震えおそれた。
十一年八月、仁賢天皇崩御。大臣(おおおみ)、平群真鳥臣(へぐりのまとりのおみ)が、もっぱら国政をほしいままにして、日本の王になろうと欲した”
“このとき皇太子は物部麁鹿火大連(もののべのあらかいのおおむらじ)の女(むすめ)、影媛(かげひめ)を娶ろうと思われて、仲人を命じ影媛(かげひめ)の家に赴かせ、双方行き合う約束をされた。
影媛(かげひめ)は以前に真鳥大臣の子鮪(しび)に犯されていた”
“太子ははじめて、鮪がすでに影媛と通じていたことを知られた。ことごとに無礼な父子の有様を知られて、太子は真っ赤になって大いに怒られた。
その夜、早速大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)の家に行かれて、兵を集めて計画をされた。大伴連は数千の兵を率い、逃げ路をふさいで、鮪(しび)臣を奈良山に殺した。このとき、影媛は殺された所へ追って行って、その殺されるまでを見た。驚き怖れて気を失い、悲涙目に溢れた”」
不比等は書から目を離し、書き手たちに一瞥を投げた。それから、ゆっくりと問いかけた。
「尋ねたいことがある」
男たちは身構えた。
「武烈の年齢についてだ」
「は、はいっ。えっと、年齢と言いますと……?」