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私は一九六四年(昭和三十九年)東京五輪から二年後の、一九六六年(昭和四十一年)に生まれた。この年はちょうど六十年に一度の丙午(ひのえうま)である。
私が生まれる一年くらい前に、家から歩いて五分ほどの所に産婦人科が開業した。母は私がお腹に宿ったので、その産婦人科に通院していた。
出産三ヶ月前に、大好きだった実父が亡くなり、あまりの悲しさに毎日泣いていたそうだ。また同じ時期に着物が送られてきて、その整理整頓をしていたせいもあってか、出産予定日よりも早く陣痛がきてしまった。
朝の五時頃陣痛が始まり、父は慌てて母を抱っこして産婦人科へ運んだ。もし近くに産婦人科が開業していなかったら、助からなかっただろうと言われた。
産婦人科医は女医さんだった。父によると、母と私は非常に危険な状態で
「胎盤剥離のため二人とも助からないかもしれない。もしお母さんが助かっても、お腹の赤ちゃんは覚悟してください」
との事だった。
父は二人とも助からずに自分と娘(長女)だけ残されたら、どうやって生きていけば良いのか、本当に苦しい思いだったそうだ。母は何としてもお腹の赤ちゃんを死なせるわけにはいかないと、心の中で祈りに祈ったらしい。
そして一時間後の朝六時過ぎに奇跡的に無事出産した。母も助かり、私も助かった。
しかし私は出産後チアノーゼになった。たまたま病院が酸素ボンベを返さずに置いていたそうで、すぐに処置することが出来た。女医さんは、私が生まれたその日が一番危ない状態だったので、ベッドで一緒に寝て徹夜してくれたそうだ。
私はこの女医さんのお陰で生きる事が出来た。もし私の近くにこの女医さんがいなければ、今の私はいない。命の恩人である。
不思議な縁で、私がこの三十五年後に実家に里帰りして、娘を出産した産婦人科の男性医師は、この女医さんと親交が深かった。
私が娘を無事出産した後の一ヶ月健診が終わって産婦人科の外に出た時、年老いた女性が誰かと話をしていた。私に付き添ってくれていた母は、その女性が私を救ってくれた女医さんだとすぐに気づいた。
「先生、お久しぶりです。娘です。娘がこちらで孫を出産しました」
と、母は抱いている私の娘を女医さんに見せた。すると娘をちらっと見て、今度は隣にいた私に近づき、ぎゅ~~っと抱き締めてくれた。女医さんは何も言葉を発しなかった。ただ私の事を抱き締めて笑顔で手を振って、連れの人と帰っていった。
もし私が一人で産婦人科に来ていたら、この女医さんの事はわからなかった。母が一緒だったから声をかける事が出来た。また、普通は赤ちゃんを見せられたら、「まぁ、可愛いねぇ。おめでとう」と赤ちゃんの方に注目するものだが、年老いた女医さんは、赤ちゃんよりも自分が助けた私の方を抱き締めてくれた。
(おめでとう。本当に良かったね)という言葉ではない心の声が、私を包んでくれたんだと思う。
その数年後、この女医さんが亡くなった事を母から聞いた。あの時会えなかったら、生涯お会いするチャンスは無かったかもしれない。本当にありがたくも奇跡的な最後の出会いだった。生きて、自分の娘を見てもらう事が出来て本当に良かった。一つ恩返しが出来た瞬間だった。
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