【前回の記事を読む】終戦直前の昭和20年5月、父親の転勤により私たちは日本に帰国した。東京へ向かう途中で空襲を目撃し――

序章 挑戦の半生

パイロットになろうと心に決めたあのとき

小学校、中学校時代を村で過ごし、当時日本で最も高性能といわれていましたアメリカ製ジェット戦闘機搭乗員を目指して防衛庁の学校に進みました。

卒業後は航空自衛隊への入隊を希望していましたが、まだ飛行機がしばしば墜落する時代でしたので、長男で兄弟がいない私は母親の猛反対に遭いました。話し合いの結果、飛行機より艦のほうがましだと母が納得し、卒業後は海上自衛隊に入隊することになりました。

しかし、これは私の策略でした。母は、海上自衛隊にも航空部隊があることを知らなかったのです。「母親はもったいないが騙しやすい」という川柳を地で行ったことになります。

写真1 パイロット時代

順調に海上自衛隊航空部隊の大型対潜哨戒機パイロットになり、10年間勤務しました。最後の数年は機長として、当時日本近海を遊弋していました旧ソ連の原子力潜水艦を追尾・監視する業務などに従事しました。

そして昭和49年、防衛庁からの割愛という形で民間の航空会社に入社し、以後25年間にわたり国際線のパイロットとして世界中を飛び回りました。

2000年、大型旅客機ダグラスDC-10の機長を最後に定年退職しましたが、通算35年間、楽しいパイロット人生を送らせていただきました。

なかでも海外駐在員として同居していた父親を含む家族全員でイタリアのローマに赴任し、ヨーロッパ各国から中近東までの飛行便に乗務した時代は、さまざまの貴重な体験と楽しい思い出がいっぱいで、我が家の宝になっています。