【前回の記事を読む】私には妻がいて、娘がいて、孫がいる――私には、家族の平和と安全安心を守る責任がある

序章 挑戦の半生

パイロットになろうと心に決めたあのとき

その後間もないある日、近所のおばさんたちが大勢集まり、白い割烹着姿でしくしく泣いていました。なぜ泣いているのか尋ねますと、航空ショーに連れていってくれました優しい軍人さんがフィリピンの南方方面軍に転勤途中、乗っていた輸送船が撃沈されて戦死したとのことでした。

誰がそんなひどいことをしたのかと尋ねますと、鬼畜米英の航空母艦から飛び立った飛行機だとの答えでした。それに仕返しする方法を重ねて尋ねますと、飛行機で航空母艦に体当りすれば良いと話してくれました。

よし、それでは自分がその役割を果たそうと心に誓ったことを思い出します。太平洋戦争中とは、そのような時代でした。

5歳になって間もない終戦直前の昭和20年5月、父親が東部軍に転勤となり日本に帰ることになりました。東京はB-29爆撃機の攻撃に毎日さらされていたため、転勤先の部隊が群馬県安中市に疎開しており、父は単身で赴任しました。母と私は、東京の南多摩郡稲城村という水田と梨畑が広がる田舎にあった母の実家に身を寄せることになりました。

鉄道で朝鮮半島を縦断して、南朝鮮の釡山港で対馬海峡を渡る関釡連絡船に乗船し山口県の下関港に到着する予定でしたが、遠く離れた九州の博多港に入港しました。

終戦直前の当時、対馬海峡は米軍が制海権を握っており、無数の潜水艦が遊弋(ゆうよく)して日本の船舶をことごとく撃沈していました。

私たちが乗船した連絡船の船長さんは、海峡の潮流等海象・気象を熟知した機転の利く素晴らしい船乗りで暗くなってから出港し、潜水艦が攻撃目標を探すために聴取するスクリューの音を出さない工夫をして、沖に出たところでエンジンを止めたのです。その結果、潮流に乗って早朝福岡県の博多港に流れ着いたとのことでした。

しかし、荷物を載せた別便は撃沈され、文字通り着の身着のままの状態でした。

東京への鉄道による移動途中、名古屋駅のホームが空襲で燃え上がり懸命な消火作業が行われていたことを記憶しています。

また、浜名湖の鉄橋が空襲されたとの緊急連絡が入ったということで鉄橋の手前で列車が止まりました。停車後間もなく、全員列車から降りて線路との間に潜り込むようにとの乗務員によるメガフォンでの伝達がありました。指示に従った直後、戦闘機の機銃掃射を受けました。ダダダダという音とともに、列車に沿って砂煙が走るのを目撃しました。

今振り返ってみますと、パイロットの顔が見えるほど超低空の射撃でしたので、列車のような大きな的を外すということは考えられがたいのです。たぶん乗っている多くの民間人が犠牲になることを避け、威嚇射撃に止めたのではないかと想像しています。戦時中でも慈悲深い人は必ずいるものだと、感慨深く思い出します。

終戦の8月15日まで3ヵ月間は連日空襲警報が鳴り響き、そのたびに庭の一角に掘ってありました防空壕に駆け込みました。夜は必ず照明を黒い布で覆い、光が少しでも外に漏れるのを防ぐ工夫をしていました。