両国の幼稚園時代
住居が東京に、名字が岩谷から中山に変わったことも幼子だった武司にはほとんど記憶がない。ただ幼稚園の時「いわたにたけし」から「なかやまたけし」に変わる字の練習を母からさせられたことを鮮明に覚えているという。兄や姉は戦前・戦中生まれ。新生中山家の中で、唯一武司だけが戦後生まれだった。
中山家はセロファン袋などを作る家内制手工業の商売をしていた。
両親と六人の兄弟だけでなく、地方から出てきた住み込みの従業員もいるという大所帯だった。
工場兼住宅は墨田区の本所、いわゆる両国界隈にあった。
赤穂浪士が討ち入りをした吉良上野介邸跡の近くだ。このあたりは関東大震災で最も被害を出したところで、さらに昭和二十年の東京大空襲でも多くの犠牲者が出た。
武司が通った江東学園幼稚園はその二つの災害による犠牲者を祀る東京都慰霊堂に隣接していた。
慰霊堂の裏側は、路地を隔てて安田学園と同愛記念病院があった。当時は二つともアメリカ軍に接収され、自動拳銃を腰に付けたMP(陸軍警察)が、日本人の通行を厳しく制限していた。
戦争の傷跡が色濃く残っていた時代だったが、江東学園幼稚園は築地本願寺が経営する大変裕福な幼稚園で、当時では珍しい大型バスを備え、園児の送迎や遠足の足として利用していた。
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