【前回の記事を読む】ニッチな隙間産業から巨大な鉱脈となった中古二輪の総合サービス業 ゼロから市場を作り出した男が持つ信念とは―

第一章 企画と失敗を繰り返した幼少期

地方で生まれ、知らぬまに東京へ

人の人生とは、天が授けた運というべきものと、後天的に自らの努力で築き上げるものとが織りなす結晶体だ。

中山武司の人生を振り返れば、生まれてすぐに実の父が急死したことは彼の努力ではいかんともしがたい悲運だったはずだ。ところがその一大事のあと母親が上京、東京で再婚して暮らした。

東京で子供の頃から様々な体験を積んだことは、あとから考えると大きな幸運だったのかもしれない。

もしそのまま地方で育っていたら、彼の人生は全く違うものになっていたはずだ。

大東亜戦争まで、岩谷勇次とうめ子は東京の下町、現在の墨田区本所で暮らしていた。勇次は鉄工所で働き、うめ子は叔父中山政勝の経営するヘヤーネットを作る工場で働いていた。勇次は無口で温厚な性格だったらしい。

戦争が激しくなり、本所周辺は大規模な空襲が予想されたため延焼防止のため住居取り壊しとなる。夫勇次は戦地へ、妻うめ子は生まれたばかりの長男厚一を連れてうめ子の実家のある長野県伊那市の高遠に疎開した。もし本所に留まっていたら東京大空襲で命の危険に曝されたかもしれない。

やがて戦争が終わる。

東京には住む家もなく、また食料の調達もままならなかった。勇次は帰還すると高遠へうめ子と長男を迎えに行く。一家は一度は東京の本所へ戻るが、うめ子は出産のため長男厚一を連れて里へ戻り、武司を出産する。

昭和二十三年、1948年二月のことだ。戦後のベビーブーム、いわゆる団塊の世代ということになる。

しかし、さあこれからという時に岩谷家を苦難が襲う。