1 フランスへの旅立ち

⬥就職して製粉会社に

1979年4月、福岡市内の大学を卒業後、実家のすぐ近くにある製粉会社に就職した。農学部で食糧化学を専攻したので食品会社への就職を希望していた。

もともと地元志向で、就職の際は郷里に帰り田舎暮らしを送ろうとしていたのだ。

翌1980年、開発部に配属となり、製菓製パン関係の仕事をスタートした。幸運にも会社が社員教育に熱心で、九州の中でも田舎と言われる地区にある会社ではあったが、その当時すでに先輩社員たちを何人もアメリカやドイツでの海外研修に派遣していた。

開発部配属の際、直属の上司より「君は菓子関係の技術者になれ」との指示を受けた。男3人兄弟の次男坊で、家で菓子を作ることなど全くなく、それまで菓子のことなどまるで関心がなかったのだが、左利きだったので手先が器用だろうから菓子づくりに向く、と思われたらしい。

技術が身に付けば海外研修に出すとの言葉が魅力的だった。地元志向ではあったものの、旅行好きで大学でもユースホステルサークルに入っていたので、海外生活ができるなんてラッキー程度に軽く考えていた。

すぐに海外に行けると思っていたが、その前に製菓技術の基礎を身に付ける必要があるとのことで、配属翌年の81年、有名シェフがいた大阪にあったホテルの洋菓子部門に1年間の菓子づくり修業に出された。

ホテルでは毎日コックコートを着て厨房で働いた。左利きではあったが不器用なため、同世代の職人の仕事ぶりに圧倒されてしまった。

当時、このホテルの菓子職人の中には本気で日本一になることを目指している人が何人もいた。このホテルで研修を受け、日本一を目指す職人の仕事への取り組みを見たことは、その後大変役に立った。

1年間のホテル研修後、すぐに海外研修とはならず、関西の洋菓子店でさらに菓子づくりを学び、ようやく大阪府のクリスマスケーキコンテストで小さいトロフィーを頂くレベルになった。

これでスイスかドイツあたりの菓子学校に1年くらい行かせてもらえるかな、と一人で思い込んでいた。

大学時代、ドイツ語を少し学んだので、派遣先はドイツ語圏の国になるだろうと勝手に予想していた。菓子の修業がようやく終わると思っていたが、海外に出す前にパンの技術も習得させる、との連絡が入った。

このため東京に移り、1984年1月、当時千駄ヶ谷にあったパン学校に入り、100日間の製パン講座を受けた。大学で食糧化学を学んでいたこともあり、この講座は学科成績トップで終了した。

 

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