それから彼は妻のいない場所で泣いた。
彼はとうとう彼女に告知をしなかった。
でも彼女はわかっていた。その命が消えることを、もうすぐに。
それでも妻の治療は微妙に行ったり来たりしながら快方に向かっていたように思えた、のに。今思うとそれは、彼ら二人には医師さえわからぬ別れの大きな予感があったのかもしれない。
その死は思いがけなく訪れた。ベッドで寝ていることが多く身体を動かすことがほとんどなかった為と後に知ったのだが、体内で血栓が出来、それが彼女の頭の血管を詰まらせた。それが直接の死因だった。
それまで付きっきりでいたのに、なぜか彼女の異変時、次衛門氏は会社にいた。
「奥さまの容態が急変しました。すぐこちらに来てください」
病院の人の声は緊急を伝えていた。それからの彼はどのように会社を早退し、電車をどのように乗り継いで彼女の傍らにまで来られたのか、まるっきり覚えていない。
彼が着いた時、彼女の意識はすでになかった。そしてそのまま、二度と彼に向かって微笑んでくれなかった。治るという気持ちの方に向かっていたのでよけいショックが大きく、彼女の突然の死に、彼は彼の中の全てが崩れ果ててゆくのがわかった。彼は後悔した。なぜずっと側にいなかったのだろうかと。
本当に悲しい時、涙って出ないのだと思った。元気な時には仲良し夫婦といっても結構言い合いもして、おれの方がこいつより生き延びてやるぞと嫌悪にも似た気持ちと共に思ったことなどきれいに消えてしまって、愛おしさだけになっていた。何日も何週間も元の自分になれなかった。時間はただ過ぎていった。
人を愛することの大きさは、失った時の喪失感に比例する。彼は悲しみの中にいた。後にして思うと、これ程人を愛することが出来た彼は選ばれた幸福者だったのだろう。娘たちも悲しみは同様だったかもしれない。でも彼には、彼女たちに思いをかける余裕なんてなかった。
友人に「おまえのとこに電話したら、奥さんの留守電だったよ」と言われ、その声を何度も繰り返し聞いて、その度に涙を流し、消去出来ずにいた。女々しい自分を意識はしていたが、どうすることも出来なかった。その間のことはよく覚えていない。
猫と犬には、娘たちがごはんと水を、そして、彼らのトイレの管理もやっていたらしい。
次衛門氏がこんな状況から少しずつではあるが立ち上がれるようになったのは、このペットの片方が弱って病気になったのがきっかけだった。