【前回の記事を読む】「この頃食事を作る気がしないわ。だって食べたくないもの」次衛門氏の妻は健康な人だったがある日を境にだんだん弱っていき……
緑川次衛門氏のあした
次衛門氏にとって妻は初恋の人だった。出会ったのは中学の部活、バレー部で、彼女は彼より一級上で活躍していた。肌は戸外でスポーツを楽しむことが多い活発さの表われか、少し浅黒く、時に見える白い歯が美しかった。
誰よりもコートを生き生きと動き回る、いつも元気いっぱいの女の人だった。
次衛門氏からはただただ高嶺の花で、憧れているだけの人だった。
学校を経た後、次衛門氏も年頃と言われる年齢になっていた。何度か失恋もしていた。
そんな時、偶然彼女に巡り会った。次衛門氏には、それは偶然ではなかったと思え、まさにイノシシのごとく猛進した。何でもかんでも彼女だ、僕の嫁さんになってくださいと、ただ進んだ。真心と誠意を込めて。
後から彼女の方も次衛門氏が好きだったということを知り、その時こそ舞い上がった。
長男長女の結婚でいろいろあったが、障害を乗り越えて結ばれた。彼女は結婚後も変わらずニコニコ笑っていて、ファイトの塊のような人だった。そんな人だから頑張り過ぎたのかもしれない。
その内、彼女は背中を痛がり、寝返りも出来なくなり、看護師さんに度々痛み止めの薬をもらうようになっていった。
次衛門氏の知っている限り、今までに弱音など吐かなかった彼女が、
「自分の私物を整理したいから外泊出来るように頼んで」
と言ったのである。今にして思うとあの時、妻は自分の死を受け入れていたのだろう。
多く黒々としていた髪だったのが、地肌が透けるようになっていた。一泊の外泊を許され、家の風呂に入り、洗い場で身体をきれいに洗った。骨と皮のような身体を次衛門氏は何度も頬ずりした。そこに彼女と彼の涙が混じった。
「おとうさん、わたしこんな状態なら早く死にたいわ。でも何でこんなに生に執着するのでしょうね」
そしてしばらくおいて、こう聞いた。
「わたしと結婚して良かった? 今でも、あの頃のように変わらず好きでいてくれている??」
次衛門氏はしっかり彼女の全てを捕らえるように、強く抱きしめた。