【前回の記事を読む】緑川次衛門氏は妻を失った喪失感と向き合いながら、日々の自然と家族の記憶に支えられて生きている

緑川次衛門氏のあした

次衛門氏からすると思いがけないことで、何と冷たい子供たちだと悲しかった。がそんな時でも、父親の誇りが残っていたのか、単に強がりだったのか、表面的にはそんな感情を抑えて、娘たちの言う通りにした。それでも心の内では、次衛門氏はずっとぶつぶつ思っていた。

家族とは一体何なのか、と。

妻を失った今、残った家族はまとまるべきだ。それは少なくとも、一緒に住むことだと。

でもずっと娘たちのことを仕事の忙しさのせいにして全て妻任せにしてきた身には遠慮があり、ここで強く娘たちに言い出すことが出来なかった。もっと父親らしく、一家のリーダーとして言いたかった。でもこれが父としての我が現実かと全て飲み込んで我慢した。

つまり次衛門氏には、この時、娘たちの本当の思いが全く伝わっていなかったのだ。

でも結局、この時の娘たちの判断は良い結果に出て、次衛門氏は娘たちに頼れなくなって、急速に元の彼に戻っていったのだ。次衛門氏には一人でやってみる経験が必要だったのである。

妻はいたって健康な人だった。趣味も多く、友人も多かった。それによく気がつく人で、彼は猫も犬のことも含めて彼女に任せっきりでいた。日本人の一般的な彼世代から前の男のように、彼はお金さえ稼いでくれば、夫そして父親は務まるものだと考えていた。

しかしそうではなかったことを、彼的には妻のそのあまりにもあっけない死で知ったのだった。

妻の最初の変調は今思うと、食卓に表われた。

「この頃食事を作る気がしないわ。だって食べたくないもの」

いつも意欲的にいろいろな料理を作っていた妻が、この頃同じものばかり雑然と出すことに次衛門氏が気づいた頃、妻はこう言い訳めいたことを言っていた。

疲れるのか、よく寝転んでいる姿を見るようになっても、彼には彼女の抱えている深刻さがわからなかった。そうこうしている内に、ふっくらしていた妻が見るからに変化していった。体重を聞いたら、常時どんなにダイエットに臨んでも五十二キロを割ったことがないと嘆いていた妻が、五十キロを割り、さらに減量方向に更新し続け始めていた。

もちろん、この頃には次衛門氏も「早く病院に行くように」と毎日家を出る前に必ず妻に言い渡していたのだが、根が健康で病気知らずだった妻本人は、「ガンバロウ」と思わないとごはんさえ食べられなくなって、歩くのも億劫になって初めて、病院へ行く決心をしたようだった。

会社人間の世代の仲間だった次衛門氏は、己の中で会社との天秤に妻の症状をかけて、この時会社を選んでいた。この時点で会社より妻の手をしっかり握っていれば、もしかしてと思う。