まえがき

「命」とは何か。

私は命とはそのもの、それぞれが刻んでゆく歳月だと考えています。それは一秒、一分毎に「生まれて」そして歩んでゆくものだと思います。

この世にある全てには「命」があり、そして全ては尊いと思っています。命とは次に繋がれてゆくものだと思います。それは簡単にパッとそこに現れるものではありません。それこそ遠い長い道のりを継いで、継いで、来た「自他共に大切な宝物」というメッセージを、そしてまた全ての命には限りがあるということを思いやってほしいのです。

私たちも含め、より以前に生きた人たちの、それこそ血と涙と汗もろもろです。

私は人生の後半に入ってきたPCの世界にまごまごしている世代ですが、命に対するこの考えには確信があるので、次世代へと引き継いでほしいと思っています。

こんな思いをこの小品に、そんなおしゃべりを書きました。

緑川次衛門氏のあした

緑川次衛門氏は朝起きるとすぐ窓を開ける。

彼の住居は二階建てで、彼のベッドは二階にある。だからまず開けるのは二階の押し出し窓である。彼は窓を開けて室内の滞っていた空気と外気とをチェンジするのだ。そして外気を思いっきり吸い込み、たとえ昨日と変わらぬ風景であろうとあたりを見回す。

それは季節の動きを一番に感じる時だ。毎日であっても、隣家の柿の木も我が家の桃の木のさまも微妙に違っている。隣家の柿の木は我が家寄りで、それは若葉が芽吹く頃特に美しい。桃の実はやはり収穫時がいい。

彼の家は結城市の中心部にある。彼がこの市に住んでから二十六年になるが、早いサイクルで田畑や林が失われている。彼はそんな現実を肌に感じながらも、春から夏はウィッチ、チチ、チーンと耳に心地良い小鳥たちの声を聞き、何より天気の良い日はお日さまが全てを喜びのシンフォニーにして彼を包む。この一時(ひととき)、彼はこの上ないしあわせを感じるのだ。

会社勤めの彼は、起床時刻が早朝の時には時間に余裕があるので、押し出し窓に腕をのせてしばらくだらんとしている。少し寝坊した時は、すぐ窓から離れねばならない。彼には扶養家族が二匹いて、奴らが彼の起きたという気配を感じてか、階下で騒がしくオイおーいと呼ぶのだ。彼は長くもない足でドタバタ階段を下り、そして彼らと挨拶をする。

犬の方が先に入り込み、猫は後から家族になった。