スタッフは他人だけれど「社会性を持った大きな家族」である。私にそう言ってくれたホーム長は確かに私を「大きな家族」に引き入れてくれた。彼はこんなところまで考えていたのだろうか。
そう思った時私は改めて彼に親しみと信頼を感じていた。そして「とりあえず」、今書き伝えておこう。
この時に思い出したもうひとりのスタッフがいた。介護を「カッコイイ」と言った若いスタッフである。「それでもその気持ちが萎えることがあるでしょう」と尋ねると彼は「(目の前に)困っている人がいるんですよ」と答えた。
彼のこの言葉を思ってみると、「老人ホーム」に入居して以来ずっと私が突っ張ってきた肩の重い荷を下ろしたように思った。「老い」は困り果てた姿、そのままなのだ。
すでに「老い」を生きている私は若い時には全く経験したことのない自分の老いを感じている。
ベッドに横たわっている時、背中が痒い、私はなんとか手を伸ばしてかくことができる。パジャマやタオルケットが折れている時、その重なりを障りに思い、体位を変えてそれを取り除くこともできる。
夜中には二度ほどトイレに起きる。危なげな足どりだが壁や椅子の背で体を支えてトイレに行くこともできる。
ダイニングなどで入居者の「痛い」はよく聞く。お尻が痛いのか同じ姿勢が続いてどこかが圧迫されているのか、今の私にはその「痛い」の正確な意味はわからない。
夜遅いのが全く苦手な私は、夜中にほとんど徹夜の状態で見守るスタッフにはかなりの負担がかかっているだろうと感じてしまう。
そしてまた改めて「困っている人がいるんですよ」と言ったスタッフの言葉を思い出す。その時「ごめんなさいね。ありがとう」と言う自分を考える。