二、

私が小学六年になってすぐに上京が決まった。クロのことは自分の胸の奥深くにしまった。

故郷を離れる感傷は微塵もなかったし、できれば思い出したくもないという気持ちのほうが強かった。

私達兄弟三人と、父の仕事仲間の家族四人で東京に向かった。当時は、急行でも福岡から東京まで二十五時間くらいかかった。

東京の渋谷区代々木が私達の新しい住所になった。

父はビルの型枠大工という仕事をしていた。小田急線がすぐ側を走っていて、代々木駅よりも南新宿駅に近い所に建てられたプレハブ造りの飯場(はんば)であった。

その頃は新宿駅西口の工事の段階であった。

飯場は二階建てで、一階に家族が住み、二階は男の独身者が老若含めて四十人前後同室に住んでいた。同じ敷地に下請けの会社の事務所が三棟あった。

私達兄弟は歩いて五分ほどの代々木小学校に通うことになった。預けられたKの子供も一緒であった。

私は東京には多くの人間が住んでいると思ったが、人の多さに驚くということはなかった。学校では九州弁丸出しで、始めは言葉遣いでよく笑われたが、たいして苦ではなかった。どこにでもガキ大将やいじめっ子がいるものだとも思った。東京のいじめは田舎に比べれば軽いものだった。

私の相撲の強さは東京でも変わらなかった。ただ、私をはるかに上回る身長と体重の生徒が一人だけいた。当時の私は百四十センチほどで、体重は四十キロくらいであった。その生徒は私より十センチ背が高く、体重は私より二十キロは上回っていた。私が転校してくるまで無敵の存在であった。

確かに体重差は相撲で実感した。小さな大人を相手にしているようだった。それでも、お互いに強さはほぼ互角であった。私も自分と互角で相撲ができる相手は初めてであった。

子供の社会では体力があるといじめられても高が知れていた。私はいやというほど田舎でそれを学んだ。同じ学校の五人に囲まれた時、私は何度も相手を投げ倒した。私が気の弱さを見せない限り相手はそんなにしつこくない。

 

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