【前回の記事を読む】じっとしているとフラッシュバックしてくる過去の苦い記憶。言い訳のできるような次の逃げ道など、残っていなかった
第一章 ナイロビ
その三 ホモ・サピエンス
そしてこのドタバタがウソのように、すべて他人事(ひとごと)としてラウンジにいる。おわった、あとは東京に帰るだけだ。帰ればまた不安な日常が始まるのだが、とにかく今は搭乗まで時間はたっぷりとある。再びテーブルに伏せた本を取ろうとしたそのときだった。喧噪の中から不意に日本語で「日本の方ですか?」と男の声がきこえる。
まわりを見てもそれらしい者は唯井だけだ。どうやら声の主は、にこにこと唯井のほうに近寄ってくる中年の外国人のようだ。まるで牧師のような柔和な顔つきで「日本のどこから来ましたか?」と重ねて聞く。やっと団体行動から解放され、旅のだいご味はこれからという貴重な時間だ。さっさと追い払おうと思ったが、
「東京から。あなたは?」と、つい口が答えた。
たぶんこのとき唯井のなかで働いたのは、心理学者ジェシー・ベリングが、いわゆる「心の理論」を用いて説く特別な心理現象だ。牧師のような外国人から不意の日本語。このまれな偶然にはきっと“特別な意味”があるはずと心が先回りして相手の心情まで推測し、神経が反応してしまったのだ。
「わたしはバルセロナからですね」と男は言うなり、手にした紺色のジャケットと肩のバッグを椅子におろし、さっさと唯井の正面に座り込んだ。半袖の白い丸襟シャツといったラフな姿だ。
「ジョナサン・ジョイスといいますね。皆にはJJ《ジェイジェイ》と呼ばれてます」
なめらかだが英語圏独特のイントネーションのある日本語で、みずからを考古学者兼心理学者だと名乗り、ナイロビには遺跡の発掘の関係でよく来るといった。若いときに数年間日本に滞在したことがあり、伏せてある本を見て声を掛けたそうだ。唯井はこの旅行の説明がめんどうくさいので、《ゆい》という名前以外は、てきとうに会社の出張だとしておいた。