【前回の記事を読む】「来年の海外研修は、アフリカにされませんか」――この一言が予想外の波紋をもたらした
第一章 ナイロビ
その二 ドタバタ
「いや、それはまだ……」唯井の困惑をしり目に、マツさんはこの救いの手を見逃さなかった。「分かりました」と、坂本顧問と相談のうえで日をあらため出直す手はずに持ちこんだ。
しかも厚かましく従来の旅行会社を聞き出し、「そちらと共同催行でも構いません」と、もう決まったかのように妥協案もしめした。局長も思わず苦笑したが、「坂本さんには私からも言っておきますよ」と、唯井の退路は断たれた。
「企暴連」から帰る道すがら唯井は押し黙っていたが、やはり我慢しきれなくなり
「なぜいきなりナイロビなの?」と聞いた。
「ああ、あれね。たまたまナイロビツアーに空きがあったんだ」拍子抜けするような答えだ。ある旅行会社が募集したケニア周遊旅行のうち、催行が確定しない七月分だけをそっくり安値で預かっただけだという。
唯井にはどうも信じられず、あたかも家族を崩壊させた自らに罰を課するかのように、じつはリスクの高い綱渡りのようなセールスを引き受けたのでは、と映った。五時近くに会社に戻ると、みんなの視線がいっせいに向けられた。転職者のいい大人に対しだれもなにも言わなかったが、「ちょっと……」の範囲は超えていた。
マツさんがプランを押さえておける期間は短い。唯井は覚悟を決め課長には無断で、局長がセットした顧問との面談にのることにした。当日、マツさんは三十階まで案内され、秘書から連絡をうけた唯井と合流しドン坂本の顧問室へ通された。ソファーでかしこまっている唯井たちをよそに、坂本上級顧問は上機嫌だった。
「吉村(よっ)さんから聞いてるよ。あそこの理事長に言っとけばいいんだろ、分かった。むかし“さっちょう”で一緒だったからな」どうやら、警察庁の元キャリア官僚の理事長に貸しがあるようだ。
あまりのあっけなさに口元を緩めているマツさんに、理事長への説明のためか、現地警察とのコネ、テロや治安、参加者数など矢継ぎ早に質問をくりだした。口ぶりからケニアへの視察は「企暴連」と自らのいい宣伝になるようだ。
アメリカの同時多発テロ、イラク戦争など取りとめもない話のあと、時間がきて「それでは」と辞する唯井たちの背中に、ドンは思い出したように言った。
「あ、そうそう。吉村(よっ)さんは若い頃中東で働いていたからね。一度、意見をきいてみたらいい」。マツさんは一瞬考え、「はい、そうします」とうなずいた。
翌日、マツさんは例の企画書を作り上げ、吉村事務局長に報告をかねて持参した。その中にはあの無味乾燥な文字のスケジュールとともに、同行者として局長の名がさりげなく入れられていた。幹事会社への説明も年内におえ、マツさんのがむしゃらな働きは、やがて三日月湖の水を風がゆっくりと押し出すように、皆を半信半疑のままアフリカへと運びはじめた。