何日か経って、足にぴったりの薄茶色の中ヒールの靴が出来てきた。生まれて初めてのかかとの高い美しい靴に私はとても満足した。初月給はこの靴の半額に消えた。そして次の給料でやっと一足分の靴の支払いができたのだった。私はこの靴を長い間、大事にして履いた。
そのころ、仕立て上がりの洋服というのはほとんどなくて、洋服店に頼むか自分で作るより仕方がなかった。仕立て代がもったいなくて、自分で服を縫おうと思い月賦でミシンを買って、会社の仕事が終わってから夜、洋裁学校に通った。
はじめのうちは製図ばかり、その次は部分縫いの練習だった。そのうち自分が着ていた女学校の制服の上衣を解いてベストを作ったり、ひだのスカートをタイトスカートに直したり、リフォームばかりしていた。母のセルの着物を貰(もら)って秋の服をこしらえたこともある。
新しい布地を買った時は鋏(はさみ)を入れるのが怖くて、失敗したらどうしようと思うとなかなか裁断できなかった。学校のない日は会社の帰りに自分の服を作る参考にと、心斎橋の洋装店のショーウィンドウをのぞいて回った。
いつだったか、「神戸の三の宮のガード下で洋服の生地を安う売るところがあるから行かへん? 私、電車の回数券を持っているから」と、友だちに誘われて三の宮まで足を延ばしたことがある。店のにいちゃんに、「かなわんなァ、そないにまけられるかいナ」とボヤかれながらも、ヘリンボンの上等の生地を友だちと一緒になって、思いっきり値切って買った思い出が懐かしい。
そのほかにお茶とお花のけいこも始めた。毎日が忙しく、日曜日に自分のものの洗濯や部屋の掃除をするくらいで、家事はほとんど手伝わなかった。全く親の助けにはならない不肖の子だった。
そのころからボツボツと社交ダンスが流行(はや)り出していた。
「五時に仕事が終わってから、屋上でダンスのレッスンをしているから行ってみない?」と牧田さんに誘われて、ある日三階建ての社屋の屋上へ上がった。
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