死について
26歳のとき、明日があるのがいやで苦しかった。言葉で書くのは簡単で、もちろん信じてもらえないだろうが、その苦しさとやらどうしようもなかった。
どうしてなのだろうか!?と、死まで考えることはなかったが、あまりに苦しいので精神科の医者を訪ねた。だが、「あなたは病気ではないです。ひとり理解者がいれば生きていかれます」と言われ、何の解決にもならなかった。他の医者へ行っても同じだった。
仕方なく郷里に帰ったが、余計苦しさがつのる気がして、死を考えた。が、私はまだ、死にたくはなかったようだ。都会生活に慣れてしまった私にとって、田舎には居場所もなく本当の理解者もなく、行きづまったように思う。
おかげで、東大病院を探し出して受診することができ、このつらさからとき放たれることができた。
誰にでも、自分に何かひとつ、これなら自信があるということ。それがある面、心の救いになる。非常に大切なことでもあると思う。
とはいえ、多情多感な若い不安定なときはどんな状況であれ、死は理屈ではない世界のように思う。
せめて『上を向いて歩こう』の如く、下を向かず、ケセラセラの如く、下ばかりみず、上を向いて生きていきたいものだ。
まるで天国から地獄――そして
部長は、何年か一緒に働いている営業の同僚だったが、いろいろと教えてもらったり、お願いしたり、何となく何でも話せる方だった。当時は一番親しかった。
その後、新宿西口のきたない古い所で、部長と私2人で事務所を持った。アポインターが4人、営業にも2人男性がいた。
独立採算制なので、部長が社長になり、私は主任でほとんどアポイントの補助だった。
もともと部長には出資金がないため、私がかなりの額を出資することになった。ローンの大嫌いな、ましてキャッシングまでして……。順調に売り上げが上がればまだよかったのだが―― 。
男って一回は社長になってみたいんでしょうか。どうも社長の席がたまらなくいいように思えて仕方なかった。結局、私が稼ぎ頭! 毎日、壊れてしまいそうな古いトイレに入るたびに、「早く、やめてほしい」と願う私だった。
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