「ルネッサンス時代のフィレンツェの人口はせいぜい十万人台だったというからね。その内四分の一が羊毛業者だった。彼らは強力な〝アルテ〟と呼ばれるギルドを作っていた」
「今はどれくらいなの?」
「七十万人ちょっとくらいかな。百万に満たない。だがイタリアの美術的遺産のほとんどがこの町に集中していると言っていい。町全体が巨大な美術館なんだ」
塔を下りるとすぐ脇にある八角形の洗礼堂を見た。ギベルティ父子制作の扉。この扉は一世紀前には真っ黒だった。ある時扉の傍を馬車が通った。すると小石が跳ね上がって扉に当たった場所が金色に光るのが見えた。扉を洗ってみると金色の輝く扉が現れたという。
その後二人はアルノ川の方向に向かい、シニョリーア広場に出た。そこには特徴のある塔に象徴されるヴェッキオ宮殿がある。五百年前からフィレンツェ市役所として使われ、今も役人が事務を執っているという特筆すべき建物だ。
彼らは広場のバールでイタリア式のサンドイッチ、〝パニーノ〟とカプチーノを摂った。午後はフィレンツェの至宝であるウフィツィ美術館に向かった。
ウフィツィ美術館はルネサンス時代に隣のヴェッキオ宮殿の付属の役所として使われていた建物で、その為に〝ウフィツィ(オフィス)〟と呼ばれている。
忠司は日本から美術館の予約を取ってあったので、列をなしている観光客を尻目に、待たされずに入館出来た。
実は忠司は旅行の前に日本のイタリア・ルネッサンス美術の専門家が書いた本を買い込んでいた。出発前に溜まっていた仕事の区切りを付けるのに多忙だった為に、飛行機の中で読むことにして持ってきた。だが機内で出たワインを飲んで食事を済ますと眠気に襲われて、結局そのT先生の解説書は読まなかった。
忠司は以前パリのルーヴル美術館に行った時に歩き回って足が棒のようになったのを思い出し、今回は見たい絵に的を絞って重点的に見ることにした。
まず目に入ったのはボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』と『春』である。二つとも大作で期待に違わない息をのむ美しさだ。ボッティチェッリの描く女の顔は卵型で白目がち、どこか憂いを帯びた表情で、体は九頭身である。奇妙な体形なのに少しも不自然に見えない。絵はよく意味の分からない寓意に満ちている。