フロイトは、発症する13年前の1910年、すでに精神分析学の先駆者の一人であったオスカー・プフィスターに宛てた手紙で「だから、既婚者らしく運命に身を任せながら、密かにお願いしておきたいことがある。病弱とか肉体的苦痛によって、能力や能率が麻痺しないようにしてほしい! マクベス王が言うように、甲冑を着たまま戦争で死なせてほしい!」注4と記している。

フロイトは「がん」と診断された直後(1923年)に、当時、親しかった医師のフェリックス・ドイチュとの会話のなかで、「もし、わたしが辛い死を宣告されるくらいなら、品位を持ってこの世から消える手伝いをしてほしい!」注5と頼んでいる。

1928年にフロイトの主治医となったマックス・シュアーに対しても、病気の進行状況については、常に「真実以外は何も話さないでほしい!」また「その時が来たら、不必要な拷問はしないこと、させないことを約束してほしい!」と要求している。

シュアーによれば、フロイトは、極めて冷静に、感情の高まりを見せず、絶対的な決意を持ってそう言ったそうである。その後、二人は握手をしたと報告している注6

フロイトはエッセイ『文化への不満』(1930)(訳者注:原題はDas Unbehagen in der Kultur、中山元訳、光文社古典新訳文庫所蔵)の中で、「長い人生というものは、もし、それがあまりにも重荷が大きくて、喜びに乏しく、悲しみに満ちていて、ただ、死を救いとして迎えるだけならば、何の意味があるのだろうか?」注7と記している。

フロイトの死の数カ月前、1939年4月28日に友人のマリー・ボナパルトに宛てた手紙には「残酷なプロセスを短くするような薬物があれば非常に望ましいのだが……」注8と記している。フロイトは、何物にも動じないストイックな人であった。

フロイトの死期が近づいた時には、顎部がんの腐敗臭に、ハエが群がってくるので、ベッドに蚊帳が張られていた。さらに悪いことには、愛犬のチャウチャウ・リュンが、そのために、病室を避けて出ていってしまったのである。

それでも、フロイトは、ほとんど英雄的にその苦しみを耐え忍んだ。痛み止めは、アスピリンと局所麻酔薬のオルトホルムだけであった。フロイトにとっては、強い痛み止め、特に、アヘン剤は、死ぬまで、厳格に拒否していたそうである注9