そこで過去簿に書かれている明治23年(1890)3月12日を新暦に変換してみると、明治 23年(1890)4月30日になりました。
これはチマのメモと一致します。従ってチマのメモにあった男児が慈幻善孩兒と考えて間違いありません。それまで誰だか分からなかった戒名は、セキの初産の児であることが判明しました。

図2 過去簿にある慈幻善孩兒と義雲禅孩女 著者所有
その後の明治32年(1899)2月17日(旧暦)に生後43日で亡くなった長女ヤヘの戒名は「義雲禅孩女(がいじょ)」です(図2)。この児は除籍謄本に載っています。
「慈幻善孩兒」と「義雲禅孩女」は読み上げると似ています。この頃は秋田に住んでおり、菩提寺は曹洞宗の洞雲寺(とううんじ)です。
長女ヤヘの9年前に生まれた男児も同じ洞雲寺による戒名と思われます。慈幻善孩兒は男児のような戒名なので、早い時期の流産ではなくて性器の識別ができるくらいに成長していた児でしょう。
死産した児であれば戸籍に登録されません。セキは満16歳8ヶ月の時に初めての出産をしたのです。小林家はこの児に戒名をつけて丁寧に埋葬しました。
末松はじめ一家の優しさを思わせます。セキは戸籍に記載されている9人の子供と合わせて10回の出産をしたことになります。第4章の家系図(図7)を参照してください。
1 小林セキ、小林廣、荻野富士夫『母の語る小林多喜二』 新日本出版社 2011年
2 戸主小林慶義の除籍謄本 昭和26年12月22日発行 下川沿村村長小林市司
3 小林家過去簿