【前回の記事を読む】文字が読み書きができない小林多喜二の母セキ。57歳にして文字を学び、刑務所へ収監された息子宛てに手紙を書く…

第2章 知られざる2人

「母の語る小林多喜二1」によるとセキは9人の子供を産み、そのうち3人は夭死しました。戸主小林慶義の除籍謄本2には多喜二の家族全員の記載があります。

戸籍に記載がある子供の数はセキの口述と一致します。慶義の戸籍は明治28年(1895)1月16日に編製されました。これは慶義が小樽に渡ってから2年後のことでした。秋田にいた父多吉郎が他界して家督を継いだものです。

本籍地は秋田のままでした。これは明治19年式の戸籍ですが、現実に生活を共にする戸主と家族が記載されています。家族というのは直系および傍系の親族のことです。

末松は慶義の弟なので、この戸籍の中に多喜二の家族も含まれていました。その戸籍から全員がいなくなったので、これは昭和8年(1933)12月4日に除籍簿に入りました。

このような戸籍から写したものを除籍謄本と呼びます。除籍謄本と戸籍謄本は内容として同じものです。手書きで複写発行されたのは昭和26年(1951)12月22日です。

これを証明したのは秋田県下川沿村 (しもかわぞいむら)村長の小林市司でした。市司は小林本家(小林多治右衛門家)の人物です。昭和8年(1933)には東京に住んでいました。

セキと一緒に多喜二の遺体を家に連れて帰った人物です。図1に除籍謄本と小林家過去簿を示します。

図1 戸主小林慶義の除籍謄本と小林家過去簿 除籍謄本:市立小樽文学館所蔵(著者寄贈)  過去簿:著者所有