【前回の記事を読む】【小林多喜二】知られざる"もう一人の弟"──兄も気づけなかった戸籍の記録と秘められた育ての親の存在

第2章 知られざる2人

2・B 末治

末治が生まれた明治39年(1906)春の末松・セキ一家は貧困のどん底とも言える状態でした。多喜二は末治が生まれた時には2歳3ヶ月でした。この年齢なら末治を覚えていなくても不思議ではありませんが、チマは5歳2ヶ月でした。

セキが自分の家で出産し、その後に少しでも生活を共にしていれば、何らかの記憶の痕跡がチマの頭に残るはずです。そうであれば、いずれ多喜二の耳に入ったことでしょう。

以上を踏まえた私の推測は次のごとくです。子供たちに余計な心配をかけまいとして、セキが自宅ではなく他家を借りて出産した可能性があると思います。セキが産気付いた時に、あらかじめ相談していた佐藤藤右衛門の家に行ったという仮説です。

そこで出産したら児をすぐに佐藤家に渡すことができます。そして第三者からは佐藤家の子供のように見えます。出産後に母セキのお腹が小さくなっても、チマに気付かれないで済ますことは可能でしょう。

セキは時々秋田を訪れていますが、そのような時には自分の実家である木村家よりも母親の生家である日景家に泊まることが多かったそうです。

昭和29年(1954)9月の台風15号はいわゆる洞爺丸(とうやまる)台風とも言われ青函連絡船洞爺丸が沈没した台風です。そんな日にセキは日景利夫宅に泊まっていました。ちょうど奥さんが産気付いたのですが嵐のために産婆を呼ぶことができませんでした。

そこでセキが日景利夫の長男を取り上げました1。このような度胸のあるセキです。他家での出産も問題ないでしょう。