この記事の著者になったつもりで手元にある戸籍謄本を解釈すると次のようになります。

(1)多喜二は新暦10月13日に生まれたが、2ヶ月も遅れて12月5日になってから戸籍に登録された。戸籍には12月1日が出生日と書かれた。

(2)末治は佐藤藤右衛門家の誰かの実子であり佐藤家で育てられた。しかしながら、なぜか小林慶義の戸籍に末松・セキの3男として登録されていた。

(3)末治は満22歳になってから佐藤家と婿養子縁組婚姻をした。そして晴れて小林慶義の戸籍から抜けて実親の籍に入ることができた。

このように複数の奇妙なことが生じます。セキが言っている多喜二の誕生日や、第三者から見える末治の外見上の親子関係を基準にしているからです。この新聞形式の記事2には末治が大館市内で健在であることも書かれています。

この時の末治は満71歳11ヶ月です。著者は戸籍上だけのことと考えたようですが、多喜二と三吾の間に末治が存在することを昭和53年(1978)に公表しました。この新聞形式の記事は地域紹介の情報誌のようなものかもしれません。

どのくらいの規模で配布されたのかも不明ですが、末治は自分と多喜二の関係を知った可能性もあると思います。前記のように三吾はその前年(昭和52年:1977年)に朝日新聞で、自分のことを「(多喜二の)たった一人の弟」と書いています。