この記事は北海道版だったので、秋田の人は目にしていないかもしれません。結局のところ、三吾も晩年には事情を知ったのではないでしょうか。

私の仮説を整理すると次のようになります。

(1)戸籍の記載から末治が末松・セキ夫婦の3男だったと分かる。出生直後から佐藤藤右衛門家の誰かに預けられた。第三者からは佐藤家の実子に見えた。この時に養子縁組はされずに小林慶義の戸籍のままだった。

(2)佐藤藤右衛門はチヨを養女として佐藤家の籍に入れた。

(3)それまで佐藤家で実子のように育てられた末治と養女チヨが、昭和3年(1928)7月10日に結婚した。佐藤家と婿養子縁組婚姻することで、末治は正式に佐藤藤右衛門の戸籍に入った。そして慶義を戸主とする戸籍から抜けた。末治は満22歳4ヶ月だった。

(4)チヨは第三者の目には嫁入りしたように見えるが、実は佐藤藤右衛門家に養女として入った。そして養女チヨとその両親の所に、末治が婿養子に入った。チヨが養女として佐藤藤右衛門の戸籍に入ったのは、末治の婿養子縁組婚姻の直前もしくは同時だったのではないかと思われる。

この(1)~(4)の仮説は複雑ですが、「戸籍の記載」と「周囲から見た末治」の両者を無理なく説明します。周囲の人には「末治は佐藤藤右衛門家の実子である。そして昭和3年(1928)にチヨを嫁に迎えた……」と見えたはずです。慶義の戸籍に入ったまま放置されていた問題が、昭和3年(1928)になって解決されたことになります。

この章の初めで実家に昭和26年(1951)に発行された除籍謄本の他に、昭和3年(1928)に発行された戸籍謄本もあったと書きました。発行日は3月8日です。これは末治の婿養子縁組婚姻(7月10日)に際して取り寄せたものかもしれません。


1 日景健『釈迦内村・川口村を通して多喜二の母の周辺をみる ―明治という時代の特異さ、不思議さ、おもしろさ―』 大館市先人顕彰祭全記録集 大館市先人顕彰祭実行委員会 2004年

2 小林三知雄(未確定)『小林多喜二に関する新聞形式の記事』 1978年2月20日

 

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