【前回の記事を読む】たくさんの人に問いたい。人の往来する場所で、フルネームを叫ばれた経験のある人はいますか?
タンポポ
街は四月を迎える。僕は紺色の学生バッグに必要なものを押し込み、慣れない手つきで制服のネクタイを締めた。ワイシャツの第一ボタンを留めるか留めないか、最後まで悩んだ結果留めることにした。
留めていなかったことを教師から指摘され、祖母に連絡がいくことがあっては敵わない。周りからの評判が悪くなさそうな、伝統を重んじる私立校に入ったことを早くも後悔しながら、僕は小さく諦め混じりの鼻息を漏らした。
「颯斗、入るよ」
祖母は普段ちゃらけているが、その相貌は傍目から見れば年齢に負けず劣らずの張りと整い具合で、柔和な雰囲気と相まって孫から見ても気品を感じる。
「どうしたの? ばあちゃん。階段危ないから、あんまり無理しちゃダメだよ」
「可愛い孫の晴れ姿を早く見たかったんよ。どうだい? 新生活の朝は」
祖母の体から、仄かに線香の香りがする。
「新生活かあ。いつもとそんなに変わらないよ。高校生になったってだけ」
「そうかい? 最近あんたの顔色、かなり良くなった気がしてる。何かいいことでもあったんかい?」
「顔色って……。俺そんなに毎日顔色悪い? 何もないよ」
そうかい、そうかいと頷く祖母の背後から、ドアの隙間風に乗る味噌汁の匂いが届けられ、僕の鼻腔を撫でた。
「ばあちゃん。挨拶するね」
祖母は黙って、朗らかな表情で頷いた。洗面所の隣、元は祖父が書斎として利用していた部屋に祖父と両親の仏壇がある。祖母は毎日線香をあげ、仏壇の前で南無妙法蓮華経を唱えている。
今日は僕の入学式だからか、両親の好物である芋饅頭と、祖父の好みの日本酒が供えられていた。荘厳(しょうごん)されたこの仏壇の前に座ると、いつも安堵感を覚える。
リンを鳴らし、手を合わせる。両親に入学式であることはもちろん、祖母や和也、自分の大事な人をどうかこれからも見守っていてほしい。そう心で伝えた。
「芋饅頭、じいちゃんと三人で、話しながら仲良く食べてるかな?」
「きっと食べとる。食べすぎて、喋りすぎて、喉詰まらせてるかもしれんな」
僕は少し笑って、気づかれないように左目をさっと擦った。
「よし。じゃあばあちゃん。行ってくる」
「ああ。気をつけて行っておいで」
新生活あるあるだろうか。初日の扉を開けた時、異世界に来たような未知の空気を感じるのは。家の前の道を往来する人たちも、今日はどこか違う気がする。