「似た体験」:
わかりにくい言い回しです。実はこの部分は、IASP定義の2020年の改訂前の定義では「そのような言葉でいい表される体験」となっていました。こちらの方がずっとわかりやすい。つまり人が〝切られたような〟とか〝焼かれたような〟といった言葉を用いて表現する体験は、実際に組織損傷が起こっていなくても、起こりうる状態でなくても、それは痛みである、と定義されていたのでした。
しかし、この定義では言語表現ができない幼児、障がい者(知的障がい者、意識障害をもつ人、認知症の患者さんなど)、そして動物が体験しているものは痛みでないことになってしまいます。そのため、言語表現の有無にかかわらず「心のなかで似た体験をしているならば、それは痛みである」との定義に変えたわけです。
さらに、運動器や内臓の疾患は自分では診ることも触ることもできず、組織損傷を確認することはできません。病院で検査を受けても異常が見つからない場合もしばしばあります。慢性腰痛ではこのことが大きな問題になっています。
つまり、運動器や内臓の疾患による痛みの多くは、診断がつかない限りは「組織損傷が起こった状態、起こりうる状態」に似た体験ということになります。IASPの定義はそれもまた痛みである、と言っているわけです。
この後、「痛みの生理」で説明しますが、痛みとは脳のなかにある感覚と情動を生み出す部分が活動すると知覚されます。そして、4章の「痛みの病理」で説明するように、体組織に組織損傷が起こっていなくても、あるいは体組織の組織損傷が治った後でも、脳の感覚と情動の部分が活動していると痛みを感じてしまいます。
このような体験もまた〝実際の組織損傷やそれが起こりうる状態に付随する不快な感覚と情動の体験に「似た」体験〟と定義しそれらも痛みである、としているのです。