【前回の記事を読む】父によって嫌々入学した高校。しかしそこでの充実した学校生活が人生の出発点となった
生い立ち編 「勉強こそが人生を切り拓くと信じて」
4.父との戦いと価値観の変化
1年生の時に先輩が折衝して、兵庫区にある禅寺の祥福寺で1週間禅修行をさせて頂いた。禅修業は初めての経験で、講話なども新鮮で楽しかった。学校とお寺を毎日柔道着姿での駆け足で移動した。『神戸新聞』に大きく報道された。新聞に写真が載ったのは初めてである、また、山田無文先生のサイン入りの本も頂いた。
夢野台高校は県立第二女学校が男女共学となり生まれた学校で、女性に人気があり女性約200人、男性約100人の割合で素晴らしい高校だった。フォークダンスの時は笛の合図で、女性が入れ替わっていた。
柔道着を隠されたり、石をぶつけられたりするので本気で怒っていた。私が困るのを見て何人かの女性が面白がっていた。自分では女性にモテないと思っていたが、そうでもなかったのかも知れない。
高校の入学式の日に大きな学生が〝広瀬君、君は名倉小学校出身だろう〟と尋ねてきた。そうですと答えると、〝僕はIだが覚えているか〟と聞いてきた。彼は小学2年生の時に父の仕事の関係で転校したが〝君とは一番仲が良かったので、よく覚えている〟と言ってきた。
彼は直ぐに私が広瀬だと分かり話しかけてきたのだが、残念ながら小学校4年生位までの記憶が少ないので全く思い出せなかった。
次の日にI君と私が写っている写真を持ってきてくれた。彼とは直ぐに仲良くなれた。彼は父の経営する食品会社を継ぎ、長らく社長をしていたが、早くに亡くなってしまった。残念なことである。
1年生の担任はS先生で化学を教わった。化学の授業は面白く、一生懸命学んだ。ところが、嫌々入学した学校なので1年生の時はやる気が全く起こらなかった。残念ながら家業も益々繁盛し家事手伝いの仕事は増えるし、クラブ活動もあるので勉強する時間が益々減ってしまった。
特に国語がどうにもならない。補習をずっと受けていたが、帰りが遅いので近所の同級生に母親が尋ねた。母は私の成績が悪いから補習を受けていることを知ったが、何も言わなかった。本来なら落第になっていたと思うが先生方の努力で何とか2年生に進級できた。
名前は忘れたが同じクラスの同級生で落第した人もいた。彼は学校に来なくなった。仲が良かったのに残念なことである。S先生からは色々と励まして頂いた。
2年生の担任はT先生で生物を教わった。当時は教科ごとに成績を貼り出していた。生物は全体で2番だったのを覚えている。友人のI君が生物部の部長をしており、私も入部したいが柔道部に加え家事手伝いもあり無理なので入部はしなかったが、文化祭の時には手伝いに行ったりしていた。