【前回の記事を読む】長女が誕生した頃、仕事が多忙で、誕生してから1週間後にやっと子供の顔を見に行った。今では決して許されざる行為だ。
第二章 私の学生期~家住期
22歳~75歳までの「家住期」 一家の主として
私は、『団塊の世代』(堺屋太一著)の第一話の主人公・富田茂樹が経験したと同じ体験をしていることを不思議に思いながら読んだ記憶があります。
A電機工業に入社し、社長秘書役付から地方支店等を経験し、その後は社長室企画課長として、業績が落ち込んだ会社の立て直しを指示されました。彼は、将来を見越して会社に「コンビニエンス・ストア・チェーン」の新設を提案しました。最終的にはコンビニを退職金がわりに引き継いで店を継続するという話です。
A電機工業は、私の就職先の会社と同じ音響製品を製造・販売する会社でしたが、業績が下降状態になり、新規事業を推進することになりました。
我が社も、ディスカウント・ストアを全国展開する会社に買収され、当時は、販売会社がメーカを吸収する「垂直統合」ということで話題をさらったこともありました。私は、富田茂樹と違って、途中で退社を決意しました。入社して15年、37歳の時でした。
次の転職先は、人材紹介会社の知人から紹介されました。特にハローワークに通うこともなく、新しい会社に就職が決まりました。当時は池袋のサンシャイン・シティに本社がある外資系コンピューター会社の日本法人でした。
よく「外資系企業は、結果を出さないと簡単にやめさせられる」と言われており、多少の不安を抱えながらも、新しい仕事に就くことができました。私にとって、その後の人生の大きな飛躍をする機会となりました。
会社は、日本企業と同様、あるいは、それ以上に家族的な雰囲気がありました。米国本社はボストン郊外にあり、世界で第2位の規模の企業でした。会社は創業以来30年以上が経過していましたが、社風は「アントレプレナー」(起業家精神)が未だ生きていました。毎年大幅な組織替えが試みられ、技術集団の会社で、世界をリードするような新技術が生まれていました。
ボストン郊外にある本社の建物は、南北戦争時の織物工場跡を改築したものでした。社内は多くの部屋に分かれていて、自分のいる場所を説明するのに、建物の柱番号が番地として印されており、それで識別されるほど複雑な内部でした。床は板張りでした。
具体的な仕事は、国内の上司に報告を上げますが、海外の同じ部署の担当者と直接仕事を進めることもあり、電話でのミーティングが日本の深夜になることもありました。
時には、自分の仕事が終了すると、新たな仕事を探すために、社内リクルートもしなければなりません。
会社で自分の存在価値を認めてもらうためには、自分自身で考えて、社内でアピールすることが求められます。