はじめに

皆さん、はじめまして。カメラマンの高橋和男と申します。アメリカではカズ・タカハシと呼ばれていました。出版物などは「カズ・タカハシ」になっています。まず最初に私がアメリカに行く前、日本での経歴を簡単に述べさせていただきたいと思います。

私が生まれたのは昭和23年(1948年)で戦後のベビーブームの真っ盛りでした。その頃はどこの家庭も貧しくて、小学校の上級生になるまでは私の家には水道がなくて近くの湧き水から水汲みを兄弟で分担してやっていたことを憶えています。

生家は鹿児島県の北西端に位置する長島です。島ですから本土に渡るのは小さなフェリーしかなく、橋がかかったのは高校を終わり島を出た後だったと記憶しています。

島にある農業専門の定時制(4年)の長島高校を卒業して憧れの東京に出ました。しかしながら東京で就職した羽田空港で飛行機に食料を積み下ろしするケータリング会社の仕事はつらい皿洗いの毎日で、しかも就職1年目に車に当て逃げされ3カ月間の入院。仕事も、お金も、友達もなくし、また実家に戻るという地獄を見ました。

「こんな惨めな自分ではいけない!」と思いながらもどうしていいかわからないまま、また東京に戻ったある日、立川駅のホームで「自衛官募集」のポスターを見かけ、私は導かれるように入隊しました。20歳でした。

自衛隊の訓練は厳しく1人で泣くこともありましたが、しかし交通事故で弱った肉体はみるみる回復し頑強になり、合計6カ月の新隊員教育のあと立川駐屯地にある第101測量大隊という航空写真から地図を制作する部隊に配属され、ここで初めて写真との出会いがありました。

ここでの仕事は私を夢中にさせ、そして幸運だったのは、同期で友人になった写真屋の息子の勧めで、2人で飯田橋にあった日本写真学園という写真学校の夜間部に1年間通って、ここで自衛隊とは違う写真の勉強をしたことです。

立川から飯田橋まで、勤務が終わってからの夜間の通学は大変でしたが、この努力がこれまで東京に出てから悪いことばかりに悩まされていた自分に大きなチャンスを引き寄せてくれました。

ある日中隊長に呼び出されると転属命令を言い渡されたのです。そこは市ヶ谷駐屯地にある第301写真中隊(現第301映像写真中隊)でした。

ここは自衛隊の様々なイベントを写真と映像で記録する部隊で、これこそが私が憧れ夢見た写真専門の部隊でした。ここでまた3カ月間写真を基礎から勉強をさせられ、カメラマンという職業が現実となったのでした。自衛隊に救われ、そして生涯にわたり挑戦し続ける写真という課題を与えられたのです。