しかし4年後に後ろ髪を引かれる思いで自衛隊を満期退職してプロのカメラマンを目指したのでしたが、現実はそんなに甘くなく、一時期能登半島で漁師をしながら写真を続け、悪戦苦闘しながら飯田橋の職業安定所に失業保険をもらいに行ったとき、幸運にもスポーツ新聞社のカメラマンの仕事を得ました。25歳でした。
「レジャーニューズ」というこの新聞社(現在廃刊)では、スポーツの取材から芸能人のインタビューまでなんでもやらせてもらえました。
入社早々編集長に、「君はサラリーマンとしてこの会社に長くいる人間ではなさそうだ。将来フリーでやるつもりだったら写真以外に記事も書く練習をした方がいい」と言われました。私は、この編集長に出会わなかったら今の自分があるかどうかわかりません。
新聞社での仕事にも慣れた頃、編集長は芸能人にインタビューして写真と記事の短いコラムを週1回ペースで連載するよう私に義務づけてくれました。私は夢中になりました。雑誌やテレビでしか知らなかった有名人たちが、自分みたいな駆け出しのカメラマンに会ってくれる。驚きと喜びの連続でした。
あとでわかったことでしたが、アメリカに来て翌年、父親が亡くなり、身辺整理していた兄から連絡が来て驚いたことがありました。
「君の名前入りの新聞のインタビュー記事がたくさん残っているから送るよ」
あの忌まわしい交通事故で家に帰った私を再び東京へと追い返した父は、後年私が書いた記事と写真とが新聞に掲載されるのを知り、毎週のようにバスとフェリーを乗り継ぎ本土の国鉄の駅の売店でその新聞を買っていたのです。そして切り抜きをたくさん残してくれていました。それを見て私は絶句し、涙が止まりませんでした。