大学を辞めてから僕はすぐに結婚し、子どもも一人生まれて、家族を養うため運送屋のトラック運転手や工場の警備員、それに不動産屋の営業などと、それこそ脈絡のない職場を転々としていた。

どちらかと言えば引っ込み思案で、ひと一倍人見知りも強かった自分に、今度の保険のセールスマンなどと言うお愛想仕事が全く不向きである事を僕は十分承知はしていた。

けれど二人目の子どもが出来た事などもあって、家族を養うためにはそんな悠長な事も言ってはいられなかった。ただ、生活が今より少しは安定するかもしれないと言うそれだけの理由で、知り合いに紹介されるまま、あまり気乗りのしなかったこの仕事を始める事にしたのであった。

その日、彼女は僕を見た時から、どこかそわそわして、不自然なほど落ち着きの無い様子であった。それでも、彼女はさっきの饒舌とは打って変わって、「ここに印鑑を押せばいいのね」などと、短く僕に尋ねただけで、後はあっけないほどすぐに契約書にサインをしてくれたのだった。

しかし、その手続きの最中でさえ、肝心の保険内容の説明などは上の空という感じで、しかも時々、上目遣いに僕の顔を見ながら、何か別の事を言いたげな表情を見せるのであった。

 

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