第一章 生い立ちの記

あきらめ

苦しみが絶え間なく無限に続くことを「無間(むけん)地獄」というのだそうですが、私たち親子がその苦しみにあえぐ姿は、「宿業」故にでしょうか、はたまた間違った教えによる「害毒」故になのでしょうか。

広辞苑をひくと、「宿業とは現世に応報を招く原因となった前世の善悪の行為」とあります。「業とは体・言語・心の三つの行為をいい、行為が未来の苦楽の結果を導く働きとなり、善悪の行為は因果の道理により、後に必ずその結果を生む」と書かれています。

害毒とは長年その家の生活の中で土台となっている考え方、生き方も知らず知らずに伝播され培われてしまうと、考えられないでしょうか。それを、仏法では「宿業」といい、因縁と因果によってあらわれてくると説いているのだと思います。

では、苦しみから抜け出すにはどうしたらよいのでしょうか。苦しみのよってきたるところの原因は何かを知らなくても、ただがむしゃらに頑張れば、解決できるのでしょうか。私たちは、何事もすべてをわかっているのでしょうか。

よくよく考えてみると知らないことがあまりにも多いことに気がつきます。目に見えることや、自分の頭で考えて導き出せることには納得出来ますが、それ以外のことは「知らないし、わからない」わけです。

だから、「信じられないし、必要ない」という結論を安直に導き出していると思えませんか。結論的に言えば知らないだけなのに……何も知らないから、素直には受け入れられないのでしょうね。

何もない時には殊更に意識しませんが、それに気づくには「人の本質」をきちんと知る必要があると考えます。いかがですか。

人の生命を真の意味で説き明かされている教え=正しい仏教の教えでは、結局、人の宿業を転換し、生命(心)を浄化していく以外にないと説くのです。その生命(心)をつかさどる心の持つ六種のはたらき、作用のことを「六識」と言います。