新型コロナ感染による「パンデミック」で潜在的に存在した、孤立、貧困の深刻化、格差が浮き彫りになった。自殺者も増えている。
大都市集中の問題も再燃している。街で外国人を見かけなくなった。ゼロコロナは難しく生活様式の変化を伴った今後の経済成長を考える時がきている。
便利な社会になったが「豊かさ」を感じる社会から遠ざかっていく。TVから笑い声が聞こえているが、世の中から、ユーモア、ウイットが消えつつある気がする。二十年間のわれわれの施設の歩みと水害の経験について述べる。
※出典・参考文献名がないものついては著者、病院スタッフが作成したものです。
第一章 佐賀県一の病院を目指して
第一節 病院の移転まで
一九七三年、医師になり、母校の外科学教室に入局を許された。毎年約三千人に医師免許が授与され、パターナリズム(父権主義)が残存していた時代だった。
一年間の初期研修を終え、三公立病院で手術、麻酔、内視鏡検査の訓練を受けた。外科の仕事が面白く、自分の居場所を見つけたと思った。
受け持ち患者さんに関する文献を読むのが楽しく、手術が早くうまくなりたいと糸結びの練習をした。研修病院に出た時は手術ができて嬉しかった。
禁煙し、牌は一度も握らず打ち方を忘れた。酒は楽しく飲んだ。一九七八年、大学に戻り動物実験室で二年間を過ごし臨床に戻った。
一九七九年主任教授が急逝され、一九八〇年K教授が着任された。卒業後七年目から大学病院で執刀の機会を与えていただいた。
謦咳(けいがい)に接したのは短期間であったが、文字通り恩師と思って心より尊敬し感謝している。人は機会が与えられると自分なりに懸命に努力する。
手術と学会発表等で多忙な日々を過ごさせていただいた。教授にお仕えしたいと思っていたが大学で研究する資質がないことは十分自覚していた。
先輩から、「自分にとって簡単と思う手術でも術前に必ず手術書に目を通すことが患者さんに対する礼儀である」と教えられた。
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