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指切り宗佐 愛恋譚
三 忍び泣き
あれは夢ではなかったかと昨日の出来事を不思議に思い返しながら、翌晩宗佐が縁側にあぐらをかいて空を仰いでいると、まるでその疑いを打ち消すかのようにあの侍女が再びやって来て、昨晩と同じことを彼に求めました。
屋敷に導かれたところまでは前日と変わりがなかったのですが、この夜通されたのは前とは違って、ずっと狭い八畳ほどの居室のようでした。家来たちの声や気配は感じられず、部屋にいるのはどうやら沙代里姫一人のようでした。
「もう、いらしてはいただけぬかと、案じておりました」寂しげな響きを帯びた声で、姫が言いました。
「は、いえ……」未だに昨夜の出来事への疑惑を引きずっていた宗佐は、極まり悪い思いをしながら答えました。
今宵もお聞かせ願えるかという姫の求めに応じて、宗佐は今の季節に最もかなうと思われた『薫風の頃』を選び、前の晩に勝る姫の賞嘆を受けました。
「妙なる調べとは、このようなものを言うのであろうと思いながら、聴いておりました。目を閉じていると、まるで皐月の薫る風に吹かれながら、遥かな野で若菜摘みをしているような心地さえ致しました。
薄紅や紫や黄や白など、様々に咲き乱れるゆかしげな花々さえ目に浮かぶようで、幼い頃に父母と共に出掛けた速峰の丘を思い出すようでした」
「光栄にございます」軽くこうべを垂れながら、宗佐は姫の感受の心の鋭敏さと濃やかさに感嘆していました。題名も告げずに吹いたのに、その調べに込めた自らの思いやその表す情景を、姫は余すところなく言い表したのでしたから。
秋の調べがあればと請われて『紅葉の鹿音』を吹いていたさなか、宗佐は思いがけず姫の忍び泣く声を聞きました。どうかなされましたか、何ぞ失礼の節でもございましたか、と当惑する宗佐に、かまわず続けよと言う声もまた涙声のようでした。
吹き終えた宗佐に、幼い頃に生き別れた乳母を思い出したものですから、と涙の残る声で姫は言い訳をするのでした。