放置すればますます悪化する現象は皆で客観的に論じられる問題として扱われやすいが、悪化や改善という概念には数値で示される事実だけでなく、個人的な基準もしばしば加味される。大企業の中年社員がオレの手足になって働く若者がいないのは少子化が進んでいるからだとぼやくときは、旧来の会社文化を前提にして夢想されたオレの本来の姿も社会的な問題を語らせる基準の一つになっている。
社会的地位の高い年配の人が少子化について語っているのを聞くと、この人にはまだ一等国意識が残っていると感じるときが多い。
アジアで唯一先進国の仲間入りをしている国家だったから日本は豊かだったのだという認識が残っている人々は、日本の国際的な地位の低下を少子化に伴う憂慮すべき事態として問題にする一方で、高度な技術や情報の共有により世界の平準化が進んでいる文明の条件についてはあまり考えず、バブル期の記憶がない若い世代がその認識と問題意識を同じように共有できないことにも想像力がはたらかない。
問題を語る人の動機や主観を不問にしていては、バブルの時代に浮かれていたおじさんたちが同じ夢を見続けるためにもっともらしい顔で問題の解決を試みて、数の少ない若い世代の負担をさらに増やすというお粗末な展開も必然的に起こる。
人は過去に身につけた感覚や常識を容易に変えられないが、それを相対化する観点がなければ問題の捉え方や解決案は硬直しやすく、少子化や日本の国際競争力の低下といった現象が二十年以上前から語られていながら議論に進歩がみられないのは、問題意識が型に囚(とら)われていて卑近な現実と向き合えていないからだといえる。
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