【前回の記事を読む】ハルは8人兄弟の長女、19歳だが、母親代わりとしてよく妹弟の面倒を見てきた。22歳になって、初めてお見合いをすることに…
老話
湖上の鈴音
祝い事は農作業のない冬になる。ハルと峯司の結婚式も寒の二月に行われた。この時代の結婚式は、生家から花嫁衣裳姿で出す。鬘(かつら)の高島田に角隠し、振袖に打掛を着て、幌付きの馬橇(ばそり)に嫁入り道具一式と花嫁が乗り、嫁いでいく。
こんな昔ながらの結婚式もハルのころで最後になり、田舎でも式場を借りるようになった。
氷点下二十度にもなるこの北国では湖も凍り、馬橇で氷上を渡ることができた。嫁ぎ先は湖の反対側になる。馬の首に鈴をつけてシャンシャンと鳴らしながら近道をし、急こう配の「馬殺し坂」と言われる坂道を馬橇三台が一気に登っていく。
御者の男は大声で皆に注意した。「花嫁さんを転がすなよ、縁起が悪いからな」と、冗談とも、本気とも取れる声が飛ぶ。氷の湖を渡り、馬殺し坂を越え、ハルは峯司のところに嫁いでいった。見合いをしてからわずか三カ月というスピード結婚は、姑のツタの体調が心配されていたからでもあった。
当時は新婚旅行に行くという習慣は農村にはなく、嫁いだ翌日から嫁の仕事が容赦なく待っていた。朝の四時には起き、ストーブに火をつけ、ご飯を炊き、掃除を済ませ、家族が起きてくる前に食事作りを終えるのだ。
家族全員のご飯をよそい、素早く自分の食事を済ませ、食卓の後片付けをさっさとこなす。農家の嫁は手品師並みの速さで仕事を進めなければならなかった。あまりの辛さに実家に泣いて帰る嫁の噂話は後を絶たない。
「またあそこの嫁は実家に泣いて帰ったらしいやね」
「姑も亭主も畑仕事を休めないと冷たいものらしい。実家の親に説得され、連れ戻されてきたらしいやね」
「子どもだっているんだ。辛抱しとき。このくそ忙しい季節にお騒がせなことだ」しかし、ハルはどんなに辛くても決して実家に泣いて帰ることだけはすまいと決心していた。
実家に自分の居場所はない。辛いときは寒い夜空を見上げて、流れる涙を乾かしてきた。嫁いだこの家が唯一自分の家だと心している。
婚家は客の多い家で、始終、誰かが茶の間でお茶をしていた。ハルはもてなしがうまいというか、客から気を抜かない。お茶が切れたら、すっと新しい温かいお茶を注ぐ。
客は居心地が良いがハルはしんどい。それでもハルは愚痴をこぼさない。このもてなしが自分の身に付くまでの辛抱だと決めている。