【前回の記事を読む】病を抱えたハル。夫と最後の旅へ——「いま鈴の音が聞こえなかったかい?」その言葉で、嫁入りの日の記憶が心によみがえる。
老話
交差点
真夏の昼下がり、ローカル線の秩父鉄道、波久礼(はぐれ)駅に睦子は降り立った。叔父の話では訪問先は駅の近くで、橋を渡ると青い瓦屋根ですぐわかるとだけ教えられ、重い気持ちで、手土産を携えここまで来た。
降りた乗客は睦子一人だけ。駅前はシャッターのおりた食堂と人家が数件ある以外に何もない。駅そのものも無人駅かと思わせる静かさだ。真夏の太陽が容赦なく照り付け、睦子の心を一層重くする。
叔父は駅を出て、少し広い道に出たらすぐわかると話していたが、それらしき家は駅からは見当たらない。線路に沿って川が流れ、大きな橋が架かっている。橋の向こう側なら神社もありそうだと睦子は日傘を広げ、橋に向かって歩き出した。
この辺りは鮎飯が有名らしい。ゆっくり橋の歩道を歩いていた睦子は川面に視線を移すと、思案する風に立ち止まり、水面を眺める。水嵩は十分だ。ゆったりと流れているかに見えたが、凝視すると勢いに気を呑まれるほど速かった。
ゆるやかに見える川の水も、立ち止まって上から眺めると、恐ろしい勢いで移動している。思わず吸い込まれそうな錯覚に陥った睦子は大きなため息をつき、気を取り直す。
今日の訪問を無事終えること。それが問題解決の最初の大切な道程だ。
橋を渡り終えると多少広い通りに出た。何の変哲もないただの田舎道。神社の鳥居とその奥に狛犬が一対鎮座しているのは見つかったが、訪ねるべき青い屋根の家は見つからない。
交差点の反対側、家の前の道路に打ち水をする女性がいる。地元の人に尋ねるのが一番早いかもしれない。
「恐れ入りますが、お尋ねします。白髪神社の宮司さんのお宅を探していまして、この辺と聞いてきたのですが……」
バケツの水を撒き終わった女性は、宮司を訪ねてくるお客とは珍しいと言いたげに睦子の顔を見つめ、ゆっくりとほほ笑んだ。かなり高齢と見える女性だった。
「その通りの五軒先の細い道を入ると、三峰さんという宮司さんの家がありますよ」ここから青い屋根は見えないわけだ。隣の家の竹藪が生い茂り、百日紅の花が満開だった。叔父は冬枯れの季節に来たのだろう。
「ありがとうございます」
睦子はお礼を言いながら、腕時計で時間を確認した。約束の時間まで一時間以上まだ余裕がある。慣れない田舎の鉄道で遅れるのが嫌で、早めに出かけてきた。おかげでたっぷり時間がある。
「この近くにお茶など飲めるような処はありませんか? 早めに着いてしまって」陶芸か何かの仕事をしているのだろうか、水を撒いていた女性は作務衣を着ており、頭には日本手拭いを姉さんかぶりにしていた。睦子の話に目ぱちくり、うーんと思案した。
「田舎にはそんな洒落た処はないからうちで涼んでいらっしゃい。ちょうどいい、話し相手が欲しいと思っていたところなのよ」と突然の誘いを持ちかけてきた。
女性は睦子の返事も待たずに玄関の引き戸を開けて、建物の中に戻っていった。睦子も後から続くと、広い三和土(たたき)の玄関があった。習い事の教室なのか、げた箱が壁を埋めている。土間の真ん中に一台のテーブルと折りたたみ式の椅子が四つ。
簡単な来客なら、ここで応対するのだろうなと見えた。
「そこに座って。ちょっと待っていて」
主は(あるじ)すぐに冷たい麦茶と水羊羹を二人分持ってきて、睦子に勧めた。玄関から見える奥の間は習字か何かの教室のようだ。板の間に机と椅子がグループ別に配置してある。